まず、私の歴史に係わる基本的態度について述べたい。
近隣諸国とここ2~30年くらい、歴史論争になっている。それが、GHQの施策と結びついている関係上、いつまでも敗戦国の自虐史観で良い訳がない。
一度、敗戦国になったからと言って永遠に敗戦国であるはずはない。
安倍談話は、近隣諸国が語る、侵略、植民地支配論争に歯止めをかける役割を果たした。安倍首相のアメリカ議会演説や安倍談話は、戦後を終わらせた、そう私はみている。
先日、同級生と歴史について議論した。
彼は、私にこう言った。
「歴史は、過去の情報の集積に過ぎず、高学歴者が第一義的に社会的に担うべきは、その専門分野においてである。」
私の見解は異なる。
渡部昇一先生の本に書いてあるように、その国の歴史は、民族の歴史であり、近隣諸国が歴史論争を仕掛け、我が国政府を窮地に陥れようとしており、彼らの言い分を認めることは、民族の将来が消されることを意味する。
同時期、私を含め、戦後世代は、民族の歴史、そして皇室について総じて無関心だった。
それを良い事に、古代史歴史学者たちはすべき歴史研究をサボリ、一部皇族たちは宮中祭祀をサボリ出した。
もはや、歴史や皇族について無関心であることは、国家的危機、すなわち、世界に稀な民族国家の未来の危機を意味するのである。
私の言いたいことはこうだ。
「高学歴者が第一義的に社会的に担うべきは、国家的危機に対してである。」
私の世代、一番優秀な方々は、東大医学部、続いて帝大医学部に進学。今頃は、その地域の基幹病院の理事長となっているはずだ。私よりも偏差値的に優秀だった、同期生たちは、誰よりも国家の危機に対し、闘うべきだ。と考えている。
世の中には、本を読んだだけでわかった気になる人、読んだ本を見せびらかして自分は知っている!と知識をひけらかす御仁が多い。団体や議員に金を寄付しただけで、保守活動に参加したと王様気分になられている方もいるかもしれない。
国家において、最も優秀な人材がそんなことでいいのか!と私は言いたい。一番優秀な人材集団が、国家の危機に際して、率先して考え、行動すべきだ。私は、東大を含む帝大医学部卒業生に対して、そう言いたい。
そんなに頭脳明晰なら、自分で歴史書を書いて配ればいいではないか!当時の国立大文学部歴史学科は、東大医学部合格者からみて数ランクも下の学力で、彼らは内心、文学部進学者たちを馬鹿にしていたはずである。
しかし、そんなに優秀であるはずの、医学部出身の歴史研究者がなかなか現れないのは、彼らはその時点で優秀だったのは確かなのであるが、それ以降、頭脳の進化が止まった、そう判断せざるを得ない。
もちろん、受験で学んだことはテクニックに過ぎない。得た、他人の知識について、上手に記憶の引き出しに格納できた人が、最終的な勝者となる世界ではある。
そこには、オリジナルなものはない。従って、受験テクニック的に優秀なのであって、創造性が認められる優秀さではない。
かくいう私は、東大医学部合格レベルでは決してないが、特定の科目の受験マニアだった。大学進学以降、今日まで創造的な事にこだわり続けてきた。ブログの世界もそうだ。オリジナルでないと書く気が起きない。大学進学時点で、そういう生き方に変えたのだ。
従って、かく主張したところで、同級生は、おそらく私が主張する意味を根源的に理解し得まいと判断、私は、かく述べたい気持ちを抑え、議論を打ち切った。
話題を変えたい。
ユダヤ人組織に、「サイモン・ヴィーゼンタールセンター」がある。
日本においては、雑誌「マルコ・ポーロ」を廃刊に追い詰め、慰安婦問題で対日急先鋒だったマイケル・ホンダ議員の来日に際し、手引き・同行したと言われる、闇の組織のように思われてきた。
が、私は、イスラエル首相の来日以降、どうもイスラエルと日本の友好関係が変わり、「サイモン・ヴィーゼンタールセンター」が慰安婦問題に言及することをやめたのではないかと推測している。
―― 参考情報 ――――――――――
慰安婦「記憶遺産」申請 ユダヤ系団体が批判「ホロコーストをねじ曲げ」
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20161125/frn1611251530004-n1.htm
―――――――――――――――――
こういう動きを知ると、安倍首相は、外交的にうまく立ち回っている、という評価となるだろう。
さて、「サイモン・ヴィーゼンタール」の意味についてご存じであろうか?
「サイモン・ヴィーゼンタール」とは実在する人物名称である。
業績的には、ナチス事案の追求に熱心な方である。
顔写真を見る限り、イスラム教徒みたいな風貌でもある。
この方が「希望の帆 コロンブスの夢、ユダヤ人の夢」と題する歴史書を書いている。内容を一言で要約するとこうなる。
「コロンブス時代に焦点を当て、その前後ユダヤ人が受けた受難・災禍について解説し、コロンブスの新大陸発見の民族的意味を歴史的に再定義する。これによって、全ユダヤ人、ユダヤ民族について書かれた民族の歴史書とする。」
「サイモン・ヴィーゼンタール」と「サイモン・ヴィーゼンタールセンタ」の関係についてはWikipediaにはこう書いてある。
||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||
この博物館の運営団体としてマーヴィン・ハイヤー(英語版)によって設立された組織は、世界のユダヤ人の人権を守る運動を行う組織としても活動している。この組織はウィーゼンタールを顕彰して、「サイモン・ウィーゼンタール・センター」と名付けられた。ヴィーゼンタールは命名料などの支払を受けたが、組織の運営などにはほとんど関与できなかった。
||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
なぜ、「サイモン・ヴィーゼンタール」はかくも顕彰されるのか?
一つは、戦後、各地に隠棲したナチス残党を発掘したことであろう。もう一つは、「希望の帆 コロンブスの夢、ユダヤ人の夢」という本を書いた評価によるものではないかと私は推定する。
「希望の帆 コロンブスの夢、ユダヤ人の夢」という本、分類的には歴史書である。内容を吟味した結果、歴史書としてはそう出来がいいとは言えない。日本の歴史学者たちは、
論文ではなく読み物だと言うだろう。
が、この本には、他の歴史書にない、突出したものがある。それは、民族の歴史探求そして民族の知られざる歴史的側面についての、並々ならぬ情熱というか執念である。
この本は、翻訳書であるのだが、翻訳文であっても情熱というか執念が読み手に伝わってくる。
日本人が書いた、大和民族の歴史に係わる歴史書で、著者の情熱や執念が伝わってくる本は果たして何冊あるのか?
世の中、嫌韓本、笑韓本が大流行だが、彼ら嫌韓本の著者たちが本来的に書くべき本は、大和民族の歴史に係わる今日的視点での本となるはずではなかったのか?
「希望の帆 コロンブスの夢、ユダヤ人の夢」については、歴史書としての評価は今一つなのだが、著者の情熱、執念については、見習うべき点があるのだ。
そして、この本には、面白い記述がある。
ユダヤ民族は、歴史的に、イスラム教徒と仲良く暮らしていたという趣旨のことが、ところどころに書いてある。
キリスト教世界とイスラム教世界は、世界史的に、例外なく対立するか戦争の時代が続いたことは周知の事実である。
が、現代においては、EU諸国は、イスラム世界の難民受け入れにことのほか熱心である。
これは何を意味するのか?
つまり、EU諸国の指導者たちは、本当はキリスト教徒ではなく…………かつてののマラーノの如く振る舞っている?
歴史は繰り返すのだ!?
ユダヤ人が受けた迫害・災禍については、確かに同情すべき点はあるし、「希望の帆 コロンブスの夢、ユダヤ人の夢」には同情を誘うような表現も散見されるし、その表現も穏当なものだ。
そう評価するならば、彼らユダヤ人組織が民族の存亡を賭けて歴史を直視、その正当性等を主張したように、南京虐殺問題、慰安婦問題への抗議について我々日本人もユダヤ人並かそれ以上の情熱・執念を発揮して取り組むべきではないか?
そして、それは、国家においてもっとも優秀な人材集団が、何をさておき取り組むべきことではないのか!
それが本稿を書いた動機であること、そうすることで、国内に棲息する、歴史を改竄・敗戦史観を維持したい勢力を早期に消滅させることを可能ならしめると考えるのである。
以上
この記事へのコメント
西
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「勉強」というのは、「先人が築き上げた知」を、「辿る事」、「真似ぶ事」であり、その対象自体は、既に「過去に確立された分野」である為、それ自体に「独創性が無い」のは当然だろうと思います。
故に、二番煎じ的なものが「面白いわけでは無い」のは当然だろうと思います。
ゆえに、「勉強」というものは、それ自体は「誰でも」できるものですが、こういった行為をあえて「面白い」などと考える事ができる人というのは、むしろ「奇異」な事です。どちらかというと、苦難にも耐え抜かなければならない為、「つらい」とか「耐え難い」といった感想が出てくるでしょう。
対照的に「学問(研究)」というのは、まだ「確立されていない知」を自ら構築し、社会に還元してこそ成り立つものなのだろうと思います。これは、未知の発見があるという意味で、非常に面白い事なのですが、一方で、先人が「手がかり」を残していない場合は、非常に困難な作業となります。
しかし、ある「一定以上の卓越した知」を持つ者達は、こういったもの(学問研究)を築き上げる事ができるはずです。
どうも現代においては、「学問研究」という作業がおろそかになっているというか、特定分野の専門には通じていても、本来彼らがやらなければならない使命、すなわち学問研究を後世に伝える事、国家(国体)の存続を担うべきエリート層というのが、自らの責務を放棄し、自己犠牲を厭い、自らの地位の保身にのみ邁進してしまい、歴史研究等を含めた「先人の知」と、「それらを築き上げる使命」を担わない為、学問研究などが停滞しているのだろうと思います。
いくら、西洋人の研究を必死に「二番煎じ的」に学んでも、所詮他人の研究ですから、「面白いわけが無い」と思います。
逆に、自民族の先人が行ってきた研究であれば、それを受け継ぐための「使命感」みたいなものが生まれるのではないかと思います。
理数系であっても、西洋人の科学研究を見せられても「面白い」と思う人は少ないでしょう。
対照的に、日本人研究者の記したものであれば、興味を持つ人も多いのではないかと思います。
実際、「(学問的に)面白い」と思う本というのは、著者(研究者)独自の視点から学問を広く、深く語る事が出来ていると思いますが、そうでない「他者の受け売り」のような「二番煎じ本」しか書かない著者(研究者)というのは、内容的にも、「何度も読みたいと思うほどの本では無い」というほど、内容的に狭く、浅いものが多いですね。
少なくとも、一昔前の学者などは、「趣味」で研究していたわけでは無かったと思います。
それを「日本人」の「子孫(後継者)」の為に、自身が「伝えなければならない事」を伝えようと必死だったと思います。
戦前辺りまでは、少なくとも「日本の文化」とか「歴史」などに「無知」という人は少なかったのではないかと思います。
それに対して、現代社会では「エリート層」と呼ばれる層であっても、受験勉強的な知識しか持ち合わせず、自ら調査等を行う人は稀、調査を行っても、それを論文などにまとめて発表する人は、もっと少ないのだろうと思います。
歴史研究等の人文・社会系もそうですが、理数系(科学)研究も衰退が懸念されているのは、この辺りの問題が深刻なのだろうと思います。
「勉強」や「学問(研究)」が「趣味」では無く、社会や子孫のためにやらなければならない「仕事(使命)」である事を、エリートはもとより、庶民であっても自覚を促さなけらばならないと思います。
管理人
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> 「勉強」というのは、「先人が築き上げた知」を、「辿る事」、「真似ぶ事」であり、その対象自体は、既に「過去に確立された分野」である為、それ自体に「独創性が無い」のは当然だろうと思います。
>
> 故に、二番煎じ的なものが「面白いわけでは無い」のは当然だろうと思います。
>
> ゆえに、「勉強」というものは、それ自体は「誰でも」できるものですが、こういった行為をあえて「面白い」などと考える事ができる人というのは、むしろ「奇異」な事です。どちらかというと、苦難にも耐え抜かなければならない為、「つらい」とか「耐え難い」といった感想が出てくるでしょう。
>
> 対照的に「学問(研究)」というのは、まだ「確立されていない知」を自ら構築し、社会に還元してこそ成り立つものなのだろうと思います。これは、未知の発見があるという意味で、非常に面白い事なのですが、一方で、先人が「手がかり」を残していない場合は、非常に困難な作業となります。
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> しかし、ある「一定以上の卓越した知」を持つ者達は、こういったもの(学問研究)を築き上げる事ができるはずです。
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> どうも現代においては、「学問研究」という作業がおろそかになっているというか、特定分野の専門には通じていても、本来彼らがやらなければならない使命、すなわち学問研究を後世に伝える事、国家(国体)の存続を担うべきエリート層というのが、自らの責務を放棄し、自己犠牲を厭い、自らの地位の保身にのみ邁進してしまい、歴史研究等を含めた「先人の知」と、「それらを築き上げる使命」を担わない為、学問研究などが停滞しているのだろうと思います。
>
> いくら、西洋人の研究を必死に「二番煎じ的」に学んでも、所詮他人の研究ですから、「面白いわけが無い」と思います。
>
> 逆に、自民族の先人が行ってきた研究であれば、それを受け継ぐための「使命感」みたいなものが生まれるのではないかと思います。
>
> 理数系であっても、西洋人の科学研究を見せられても「面白い」と思う人は少ないでしょう。
> 対照的に、日本人研究者の記したものであれば、興味を持つ人も多いのではないかと思います。
>
> 実際、「(学問的に)面白い」と思う本というのは、著者(研究者)独自の視点から学問を広く、深く語る事が出来ていると思いますが、そうでない「他者の受け売り」のような「二番煎じ本」しか書かない著者(研究者)というのは、内容的にも、「何度も読みたいと思うほどの本では無い」というほど、内容的に狭く、浅いものが多いですね。
>
> 少なくとも、一昔前の学者などは、「趣味」で研究していたわけでは無かったと思います。
>
> それを「日本人」の「子孫(後継者)」の為に、自身が「伝えなければならない事」を伝えようと必死だったと思います。
>
> 戦前辺りまでは、少なくとも「日本の文化」とか「歴史」などに「無知」という人は少なかったのではないかと思います。
>
> それに対して、現代社会では「エリート層」と呼ばれる層であっても、受験勉強的な知識しか持ち合わせず、自ら調査等を行う人は稀、調査を行っても、それを論文などにまとめて発表する人は、もっと少ないのだろうと思います。
>
> 歴史研究等の人文・社会系もそうですが、理数系(科学)研究も衰退が懸念されているのは、この辺りの問題が深刻なのだろうと思います。
>
> 「勉強」や「学問(研究)」が「趣味」では無く、社会や子孫のためにやらなければならない「仕事(使命)」である事を、エリートはもとより、庶民であっても自覚を促さなけらばならないと思います。
勉強と学問の違い、わかりやすい解説ありがとうございます。
私は、数学と英語と物理については、マニアックに「勉強」しました。
が、その反動と大学教養過程の教官のレベルの低さに学問的興味を失いました。
渡部昇一先生が言っていた、ジェントル・スカラーシップ(在野の博士?)みたいな感じの方が自分に合っていると思います。