次世代の愛国保守のシンボルと言われた、稲田大臣に係わる、芳しくないニュースが増えた。稲田大臣には、何としても持ちこたえていただきたいと思っていたが大臣辞任されるそうである。
タイミング的には、蓮舫辞任、籠池夫妻事情聴取、陸上自衛隊トップの岡部俊哉・陸上幕僚長引責辞任と続いた中での辞任なので、カムフラージュされている感はある。
私は、二度がっかりしている。
一つは、そういう類のニュースが配信される事実。もう一つは、そういう人物とは程遠い実態だった?可能性についてである。
そして確定的に言えることがある。私は、稲田大臣ほどの愛国者ではない。おそらく!
なぜなら、人前で、自分は愛国保守だとか真正保守だとか、自己紹介する気がまったくないからだ。
「愛国保守という概念」についての認識が、代表的な愛国議員と言われてきた稲田議員の場合と比較して、まるで異なるのだ。
なぜそう考えるのか、身近な事例で紹介したい。
ここ数年で近所に住む、小さい子供が増えた。
私が住んでいる場所に特異な現象である。小さい子供から挨拶されるのは、生活の楽しみの一つとなった。
さて、将棋の世界、古参で高齢の、加藤一二三という将棋棋士が現役引退した。頭脳明晰で力強い手を指される方だった。
その方があることで怒ったそうだ。
―― 参考情報 ――――――――――
【ひふみん】“怒ったことない”加藤一二三を怒らせた男性ファンの無作法とは...!? 【スキャンダランド】
https://www.youtube.com/watch?v=ndkSRg2XGhw
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場所が場所だけに、怒るのは無理はない。サインを求めた方は、将棋棋士としての冴えか流儀について、加藤一二三に対し尊敬の念を持っていたのであろうか。
加藤一二三という将棋棋士が、将棋の戦法面において、伝説に残る何かを残したのか、そこがポイントであろうと私は考える。
Wikipediaの文面から察するにどうもそうではないようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E4%B8%80%E4%BA%8C%E4%B8%89
長く現役を続けることは重要なことであるが、それが将棋棋士の価値とどう関係があるのか。加藤一二三は、職業上の(勲章的)肩書として「先生」と言われたかったようである。
世の中、そういう御仁が多すぎる気がする。
どうして、あの良寛さんのように振る舞えないのであろうか?
良寛さんの書の傑作をご存じであろうか?
「天上大風」という四文字の書。一緒に遊んでいる子供にせがまれ、凧用に書いたという逸話が残っている。きっと子供たちから、「良寛さん、何か書いてよ」とせがまれたのだろう。
||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||
http://www.all-japan-arts.com/rekishi/0709rekishi.html
||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
もちろん、子供たちは、良寛に対して「良寛先生」と言うはずはない。
文字の何とも言えない雰囲気、子供心にマッチする。貰った子供さん本人は、老人世代になった時、良寛さんのこの上ない配慮に驚いたはずである。
そういう意味で、あの書は傑作中の傑作なのである。
どんなに逆立ちしようが、普通の大人がああ書けるはずはない!
さて、私の廻りには、良寛さんのような方はいなかったが、愛国者はたくさんいた。
ただ、皆さん、進んで愛国者とは名乗らなかった。
ところが、政治ブログを始めようと考え、議員・活動家のブログを眺めると、私は真正保守です、私は愛国保守です、私は保守です、と頼みもしないのに、自己紹介する輩が続出。(例外は瀬戸弘幸。その昔も今もそんなことはない!)
親しい人が決して言わないことを、敢えて言う人たちが存在。また、そんな方々が続出するブログ界、私は、ノンポリ・にわか保守と名乗るしかない。当然、彼らは馬鹿にする。そう非難されたこともあるようだ。
が、ノンポリ・にわか保守にもそれなりの意地がある。
私は、私の廻りに愛国者がたくさんいたと書いた。とりあえず遭遇した、四人の偉大な先人を紹介させていただく。
一人目は小学校教師。在命なら年齢は百五歳前後の方。
私は、自分が認める愛国者の中で、この小学校教師を一番の愛国者と信じている。支那戦線で砲兵隊長か戦車隊長で従軍、戦後は、スキル的に高校教師の実力を持ちながら小学校教員で終わった。得意な教科は国語。小学校の授業にしては緊張感ある内容だった。運動会や卒業式での、君が代斉唱の際の声の張りと大きさには、圧倒された。小学生時代の記憶である。その小学校の教師、私の大学進学が決まったことを確認のため、自宅に訪ねてきて満足そうに帰っていった、という話を母から聞かされた。
その教師の年代になり、かつての教え子の自宅を小学校教師OBとして訪問する意味を考えてみた。大学生だった当時は、わからなかったが、今なら、言えることがある。彼は彼なりに考えて、教え子の中の誰かに、(敗戦した自虐史観の)国家再生・建設を託したい、そう考えたのではなかろうか?
二人目は市議会議員。在命なら年齢は九十歳前後の方。
親の知り合いに市会議員がいた。この方、ただの自民党所属の市会議員ではない。市会議員前に、政治活動にのめり込み、その縁で時の首相と友人だったのだ。親の薦めで故郷の市役所に就職しようと考え、議員宅を訪問した。その際、是非郷土に残って欲しい、郷土のために働いて欲しいと言われた。しかし、私は民間企業に就職した。東京都議会議員の中に内田某という実力者がいたが、この市議会議員もかなりの実力者だった。もちろん、親はこの議員の選挙の手伝いに行った。この議員の紹介で、市役所に勤めたら、今頃はどこかの自民党所属議員になっていたかもしれない、そんな気がしている。
三人目は、大学の教官。在命なら年齢は九十八歳くらいの方。
戦時中は、技師として、海軍工廠にて勤務。数々の名だたる試作機の実績がある。卒業後は、大学に戻り、学問一筋。学園紛争時代は、学生の説得にあたったそうだ。講義の最初と最後に国歌斉唱したという伝説がある。私が受けた講義にて、開口一番、「日本は技術で負けたのではない…………就職先はたくさん用意してあるので、安心して勉強するように!」と語られた。私は、この教官から(学界ではかなり有名な方であるが)、亡くなられる2年前まで、毎年のように年賀状を頂戴した。「東大には負けるな」が口癖だった。
四人目は、中学の国語教師。年齢は75歳くらいの方。
中学教師と聞いて普通は大したことがないと馬鹿にするのであるが、この教師は、高校免許を有する教師で、授業にて独自の見解を披露する大変面白い方であった。古典を勉強し直そうと古語の文法本や古語辞典を買い揃えている最中なのだが、古典の面白さはこの教師から学んだ気がする。この教師は、教師を続けながら、ある古典について学術的なレベルで研究を続けていた。熱意を以て、古典を研究する研究者は、皇室の存在を肯定する点において、愛国者のはずである。実家は神社の神主。現在は、とあるカルチャーセンター講師として活躍されている。
補足するが、これら四人の方は、自ら愛国者であるとか保守主義者であるとか語ったことはない。
私は、これら4人の恩師、先輩と比較し、自分を愛国者だと思ったことはない。こうして、彼らが私に接した動機、背景を振り返り、その後の日々の活動の中で参考とさせていただいたり、何かを託され現在の自分があると思っている。
単なる偶然であるが、隣に住んでいた方が、官僚OB、熱心な自民党支持者だった。何度か海外旅行帰りのお土産に、1万円はする洋酒を何度か頂戴した。その方は鬼籍に入られたが、私はその洋酒を頂戴したお礼に、何か自分にできることがないかという気持ちで、そのお孫さん夫婦と接している。
ずっとノンポリでにわか保守だったに過ぎないのであるが、廻りに愛国者がちゃんといたお蔭で、今の自分がある。
つまり、愛国保守とは、自身からそうだと意識して喧伝したり、自分からそうなろうとして突然生まれるような性格のものではなく(もともと共産主義者だったポルノ映画監督が突然愛国テレビ局に一晩で変身したケースがある)、自己紹介する際に求められる政治的主張のような類のものではなく、それぞれの人生における出会いを通じて育まれ、託される要素が多分にある、そう私は思いつつある。(稲田議員は、そういう環境の中で育ち、期待されたに違いないのだが)
拙ブログの「Z旗」もそうだ。伝説のブロガー「花うさぎ」さんが逝去され、拙ブログ管理人は、花うさぎさんとまったく面識はないが、亡くなられる直前にトラックバックいただいたご縁で、「Z旗」のコピーを掲載させていただいている。
また、当然のことであるが、原宿の東郷神社の参拝も機会を見つけ続けている。
少し脱線してしまった部分はあるが、愛国保守という概念は、冒頭で紹介した良寛の書の如く、それぞれの人生において何らかのきっかけで特定のDNAを託され、託された人は手段を形を考え次の世代に託す、そういう性格のものではないか?
ネット界では、自分が書いた本を買えとか、ブログランキングボタンを押せとか、そういう要請が目立つ。そういう類の尺度で愛国保守度がビジネス的に評価されるシステムになってしまった感がある。が、本来、そんな性格のものではなく、国家再生・建設を目指し、託し託されて継承される類のものではないか。近所の子供たちが遊ぶ姿を眺めながらそう思いつつある。
そして、私にとって雲の上的な愛国者が一人存在する。
三島由紀夫である。市ヶ谷で起きたあの日のテレビニュースでの姿は今もはっきり覚えている。三島由紀夫が自決したのは45歳。私は、その年齢を越えているが、政治活動家として小説家として戯曲家として評論家としてエッセイストとしても、三島由紀夫を完全に理解するに至っていない。
つまり、三島由紀夫を通じて、愛国保守の奥深さを知るのである。
以上
この記事へのコメント
西
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稲田防衛大臣については、政権側の思惑と、野党側、反日マスコミとその他団体の行動を見て、辞任を承認したのだろうと思います。
これが吉と出るか、凶と出るかは、素人目には、政治の内情が分からない所が多すぎる為、しばらくは静観したいと思います。
そもそも、「保守」とは何か。
歴史上、多くの人々から「偉人」や「英雄」と呼ばれる人がいますが、彼らは何故「偉人」と呼ばれるのだろうか、と思う事があります。
逆に、スターリンやヒトラーのように、「極悪非道な悪人(支持者から見れば正義の味方のようにも見えますが)」と呼ばれる者は、何故そう呼ばれるのか、と思う事があります。
思ってみれば、これらは多くの人が真剣に考えた事が無いような事だと思います。
確かに、ヒトラーやスターリンは「多くの無辜の人々」を「虐殺」していますから(但し、ホロコーストに多くの疑義がある事は承知しています)、「冷酷な独裁者」と呼ばれるのは理解できるところもありますが、しかし、それであっても、きちんと論証されたことなど無いと思います。
それならば、戦争における「英雄」なども、あえていうのならば、「多くの人々(非戦闘民を含めて)」を殺していますから、「極悪非道」という事になるはずですが、そうならない事は、戦争当事者間で互いに承知されているはずです。
多くの人間は、無力というか、ちっぽけな存在だと思います。しかし、時に「大きな力」を持つ人間がいます。
それが、「徳」を身に付ければ「偉人」や「英雄」、「悪魔」を味方に付ければ、強大な「独裁者」になるのだろうと思います。「力量」という点では、恐らくどちらの存在もあまり変わらないような気がしています。
中には、北の独裁者一族のように、「虚像」で塗り固められた「偽の英雄(正体は悪魔)」もいますが、やはりああいった存在というのは、「力」で他者を押さえつけなければ常に政権を維持できず、時に外の強力な独裁者によって「傀儡」にされ、最後は身をも滅ぼす事だってあります。
現在、日本には真の「偉人」や「英雄」はいないのかもしれない、と嘆いております。
あの三島由紀夫のように、知力、体力、行動力、そして「人格」が伴った「英雄」など欠如しているに等しいと思います。
多くの保守派は、たとえ一人であっても、三島程ではなくとも、「三島を小さくしたような存在」のような者になるべきだと思っていますが、それすら理解している者がどれだけいるのか、と思います。
何やら、自ら「真正保守」だ、「愛国者」だと称しておきながら、単に活動の方便として薄っぺらく、「耳障りの良い言葉」を唱えているだけではないのか、と思います。
そして、その事を批判する者に対しては、必ずしも「国賊」や「売国奴」で無いにもかかわらず、そのような「蔑称」や「罵倒語」を頻繁に使用する。その時点で、既にその人の「保守」や「愛国」というのは、その程度の存在だったのだろうと思わざるを得ません。
「愛国」なども「哲学」というか「思想」が伴わない限り、「悪意」のある第三者に利用されかねません。それが所謂「隠れ共産主義者」なのではないかと思います。
彼らは、都合の良い時には「愛国」を殊更に唱えますが、それは「自分達が攻撃されにくい立場」に立ちたいがための「方便」に過ぎず、災難が去ってからは、手のひらを返したように、「愛国心」を否定し、再び「共産主義思想」を宣伝し始めます。
こういった「偽の愛国者」がどれ程多い事か。
錯乱保守などもそうですが、薄っぺらい「愛国心」だとか「保守」だとか唱えたところで、意味不明で、それが何なのかという事について問われた時に、彼らがどう答えるのか見当もつきません(精々、特攻礼賛か、中身の無い精神論の乱発程度でしょう)。
こういった錯乱保守の言動を見ていると、彼らは、隠れ共産主義者か、保守派に転向した後、保守思想を研究した事が無い元共産主義者、そうでなくとも、そういった存在に「無意識の内」に「共鳴」しているのではないかと思います。
やはり、そういった錯乱保守(保守とは何か、自分自身も分かっていないにもかかわらず、保守や愛国を殊更に強調する者達)というのは、ともすれば、保守派の活動を「阻害」し、時に左派になびいたりする事もあるので、非常に危険な存在である為、関わるべきではないと断定せざるを得ません。
自分は、我々保守派の道標のような存在である、「三島由紀夫」などの「英雄」、「偉人」が何故、左派も含めて「尊敬される」のか、非常に気になっております。そして、現在の日本に「三島」を「継ぐ者」がいない理由も分かるのではないかと思います。
「三島」が単なる「作家活動」にとどまるのではなく、「日本人の心」を取り戻そうと奮闘したのは何故なのか。
我々は、三島の事をまだ何も分かっていなかったのかもしれないと思っています。
あれだけ人間として奥深く、崇敬できる者というのは、生きること自体が、「哲学」そのものであり、そういった人物は世の中にそうはいるはずがありません。しかし、昔の日本(昭和以前)には、このような人物がもっと多くいたはずです。
この辺りの課題を解決する事でのみ、保守思想、および「明治以来」の日本の「歪み」を正し、元の「皇室(天皇陛下、神道)」を国家の中枢に据えた国づくりができるのだろうと思っています。
今後、このような「偉人」や「英雄」をテーマにした出稿を期待しています。
管理人
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> 稲田防衛大臣については、政権側の思惑と、野党側、反日マスコミとその他団体の行動を見て、辞任を承認したのだろうと思います。
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> これが吉と出るか、凶と出るかは、素人目には、政治の内情が分からない所が多すぎる為、しばらくは静観したいと思います。
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> そもそも、「保守」とは何か。
>
> 歴史上、多くの人々から「偉人」や「英雄」と呼ばれる人がいますが、彼らは何故「偉人」と呼ばれるのだろうか、と思う事があります。
>
> 逆に、スターリンやヒトラーのように、「極悪非道な悪人(支持者から見れば正義の味方のようにも見えますが)」と呼ばれる者は、何故そう呼ばれるのか、と思う事があります。
>
> 思ってみれば、これらは多くの人が真剣に考えた事が無いような事だと思います。
>
> 確かに、ヒトラーやスターリンは「多くの無辜の人々」を「虐殺」していますから(但し、ホロコーストに多くの疑義がある事は承知しています)、「冷酷な独裁者」と呼ばれるのは理解できるところもありますが、しかし、それであっても、きちんと論証されたことなど無いと思います。
>
> それならば、戦争における「英雄」なども、あえていうのならば、「多くの人々(非戦闘民を含めて)」を殺していますから、「極悪非道」という事になるはずですが、そうならない事は、戦争当事者間で互いに承知されているはずです。
>
> 多くの人間は、無力というか、ちっぽけな存在だと思います。しかし、時に「大きな力」を持つ人間がいます。
>
> それが、「徳」を身に付ければ「偉人」や「英雄」、「悪魔」を味方に付ければ、強大な「独裁者」になるのだろうと思います。「力量」という点では、恐らくどちらの存在もあまり変わらないような気がしています。
>
> 中には、北の独裁者一族のように、「虚像」で塗り固められた「偽の英雄(正体は悪魔)」もいますが、やはりああいった存在というのは、「力」で他者を押さえつけなければ常に政権を維持できず、時に外の強力な独裁者によって「傀儡」にされ、最後は身をも滅ぼす事だってあります。
>
> 現在、日本には真の「偉人」や「英雄」はいないのかもしれない、と嘆いております。
>
> あの三島由紀夫のように、知力、体力、行動力、そして「人格」が伴った「英雄」など欠如しているに等しいと思います。
>
> 多くの保守派は、たとえ一人であっても、三島程ではなくとも、「三島を小さくしたような存在」のような者になるべきだと思っていますが、それすら理解している者がどれだけいるのか、と思います。
>
> 何やら、自ら「真正保守」だ、「愛国者」だと称しておきながら、単に活動の方便として薄っぺらく、「耳障りの良い言葉」を唱えているだけではないのか、と思います。
>
> そして、その事を批判する者に対しては、必ずしも「国賊」や「売国奴」で無いにもかかわらず、そのような「蔑称」や「罵倒語」を頻繁に使用する。その時点で、既にその人の「保守」や「愛国」というのは、その程度の存在だったのだろうと思わざるを得ません。
>
> 「愛国」なども「哲学」というか「思想」が伴わない限り、「悪意」のある第三者に利用されかねません。それが所謂「隠れ共産主義者」なのではないかと思います。
>
> 彼らは、都合の良い時には「愛国」を殊更に唱えますが、それは「自分達が攻撃されにくい立場」に立ちたいがための「方便」に過ぎず、災難が去ってからは、手のひらを返したように、「愛国心」を否定し、再び「共産主義思想」を宣伝し始めます。
>
> こういった「偽の愛国者」がどれ程多い事か。
>
> 錯乱保守などもそうですが、薄っぺらい「愛国心」だとか「保守」だとか唱えたところで、意味不明で、それが何なのかという事について問われた時に、彼らがどう答えるのか見当もつきません(精々、特攻礼賛か、中身の無い精神論の乱発程度でしょう)。
>
> こういった錯乱保守の言動を見ていると、彼らは、隠れ共産主義者か、保守派に転向した後、保守思想を研究した事が無い元共産主義者、そうでなくとも、そういった存在に「無意識の内」に「共鳴」しているのではないかと思います。
>
> やはり、そういった錯乱保守(保守とは何か、自分自身も分かっていないにもかかわらず、保守や愛国を殊更に強調する者達)というのは、ともすれば、保守派の活動を「阻害」し、時に左派になびいたりする事もあるので、非常に危険な存在である為、関わるべきではないと断定せざるを得ません。
>
> 自分は、我々保守派の道標のような存在である、「三島由紀夫」などの「英雄」、「偉人」が何故、左派も含めて「尊敬される」のか、非常に気になっております。そして、現在の日本に「三島」を「継ぐ者」がいない理由も分かるのではないかと思います。
>
> 「三島」が単なる「作家活動」にとどまるのではなく、「日本人の心」を取り戻そうと奮闘したのは何故なのか。
>
> 我々は、三島の事をまだ何も分かっていなかったのかもしれないと思っています。
>
> あれだけ人間として奥深く、崇敬できる者というのは、生きること自体が、「哲学」そのものであり、そういった人物は世の中にそうはいるはずがありません。しかし、昔の日本(昭和以前)には、このような人物がもっと多くいたはずです。
>
> この辺りの課題を解決する事でのみ、保守思想、および「明治以来」の日本の「歪み」を正し、元の「皇室(天皇陛下、神道)」を国家の中枢に据えた国づくりができるのだろうと思っています。
>
> 今後、このような「偉人」や「英雄」をテーマにした出稿を期待しています。
本稿、稲田大臣に読んでいただければと思い出稿しました。
また、保守思想について根源的視点から語ってきた、福田恒存の本、体験的なことはあまり書かれていない印象がありました。
愛国者とは、周囲にちゃんとした愛国者が揃っていれば、いつか気づき、求められる場面で自然に(愛国者として意識することなく)発言・行動する、そういう習性のものではないか?
優秀な子供を輩出する家庭は、それなりの環境であるというジンクスと似ている気がします。
西さんのコメント、本稿の追記として掲載するににふさわしい内容と受け止めております。
偉人や英雄をテーマにした原稿のリクエスト頂戴しましたが、凡人の私には簡単なことではありません。が、最近そういうテーマで書けそうな歳になったような気がしております。