稲田大臣辞任に際し、私的体験について述べさせていただいた。
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愛国保守の原点 継承されるべきもの
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「西」さんのコメントを一読したい。
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「保守」が何か分からない「保守派」が多すぎる問題について
稲田防衛大臣については、政権側の思惑と、野党側、反日マスコミとその他団体の行動を見て、辞任を承認したのだろうと思います。
これが吉と出るか、凶と出るかは、素人目には、政治の内情が分からない所が多すぎる為、しばらくは静観したいと思います。
そもそも、「保守」とは何か。
歴史上、多くの人々から「偉人」や「英雄」と呼ばれる人がいますが、彼らは何故「偉人」と呼ばれるのだろうか、と思う事があります。
逆に、スターリンやヒトラーのように、「極悪非道な悪人(支持者から見れば正義の味方のようにも見えますが)」と呼ばれる者は、何故そう呼ばれるのか、と思う事があります。
思ってみれば、これらは多くの人が真剣に考えた事が無いような事だと思います。
確かに、ヒトラーやスターリンは「多くの無辜の人々」を「虐殺」していますから(但し、ホロコーストに多くの疑義がある事は承知しています)、「冷酷な独裁者」と呼ばれるのは理解できるところもありますが、しかし、それであっても、きちんと論証されたことなど無いと思います。
それならば、戦争における「英雄」なども、あえていうのならば、「多くの人々(非戦闘民を含めて)」を殺していますから、「極悪非道」という事になるはずですが、そうならない事は、戦争当事者間で互いに承知されているはずです。
多くの人間は、無力というか、ちっぽけな存在だと思います。しかし、時に「大きな力」を持つ人間がいます。
それが、「徳」を身に付ければ「偉人」や「英雄」、「悪魔」を味方に付ければ、強大な「独裁者」になるのだろうと思います。「力量」という点では、恐らくどちらの存在もあまり変わらないような気がしています。
中には、北の独裁者一族のように、「虚像」で塗り固められた「偽の英雄(正体は悪魔)」もいますが、やはりああいった存在というのは、「力」で他者を押さえつけなければ常に政権を維持できず、時に外の強力な独裁者によって「傀儡」にされ、最後は身をも滅ぼす事だってあります。
現在、日本には真の「偉人」や「英雄」はいないのかもしれない、と嘆いております。
あの三島由紀夫のように、知力、体力、行動力、そして「人格」が伴った「英雄」など欠如しているに等しいと思います。
多くの保守派は、たとえ一人であっても、三島程ではなくとも、「三島を小さくしたような存在」のような者になるべきだと思っていますが、それすら理解している者がどれだけいるのか、と思います。
何やら、自ら「真正保守」だ、「愛国者」だと称しておきながら、単に活動の方便として薄っぺらく、「耳障りの良い言葉」を唱えているだけではないのか、と思います。
そして、その事を批判する者に対しては、必ずしも「国賊」や「売国奴」で無いにもかかわらず、そのような「蔑称」や「罵倒語」を頻繁に使用する。その時点で、既にその人の「保守」や「愛国」というのは、その程度の存在だったのだろうと思わざるを得ません。
「愛国」なども「哲学」というか「思想」が伴わない限り、「悪意」のある第三者に利用されかねません。それが所謂「隠れ共産主義者」なのではないかと思います。
彼らは、都合の良い時には「愛国」を殊更に唱えますが、それは「自分達が攻撃されにくい立場」に立ちたいがための「方便」に過ぎず、災難が去ってからは、手のひらを返したように、「愛国心」を否定し、再び「共産主義思想」を宣伝し始めます。
こういった「偽の愛国者」がどれ程多い事か。
錯乱保守などもそうですが、薄っぺらい「愛国心」だとか「保守」だとか唱えたところで、意味不明で、それが何なのかという事について問われた時に、彼らがどう答えるのか見当もつきません(精々、特攻礼賛か、中身の無い精神論の乱発程度でしょう)。
こういった錯乱保守の言動を見ていると、彼らは、隠れ共産主義者か、保守派に転向した後、保守思想を研究した事が無い元共産主義者、そうでなくとも、そういった存在に「無意識の内」に「共鳴」しているのではないかと思います。
やはり、そういった錯乱保守(保守とは何か、自分自身も分かっていないにもかかわらず、保守や愛国を殊更に強調する者達)というのは、ともすれば、保守派の活動を「阻害」し、時に左派になびいたりする事もあるので、非常に危険な存在である為、関わるべきではないと断定せざるを得ません。
自分は、我々保守派の道標のような存在である、「三島由紀夫」などの「英雄」、「偉人」が何故、左派も含めて「尊敬される」のか、非常に気になっております。そして、現在の日本に「三島」を「継ぐ者」がいない理由も分かるのではないかと思います。
「三島」が単なる「作家活動」にとどまるのではなく、「日本人の心」を取り戻そうと奮闘したのは何故なのか。
我々は、三島の事をまだ何も分かっていなかったのかもしれないと思っています。
あれだけ人間として奥深く、崇敬できる者というのは、生きること自体が、「哲学」そのものであり、そういった人物は世の中にそうはいるはずがありません。しかし、昔の日本(昭和以前)には、このような人物がもっと多くいたはずです。
この辺りの課題を解決する事でのみ、保守思想、および「明治以来」の日本の「歪み」を正し、元の「皇室(天皇陛下、神道)」を国家の中枢に据えた国づくりができるのだろうと思っています。
今後、このような「偉人」や「英雄」をテーマにした出稿を期待しています。
西 | 2017.07.30(日) 02:01 | URL |
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自ら進んで、愛国、保守を名乗る言論人、活動家が激増している中で、「西」さんの指摘「我々は三島を理解しておらず、三島を乗り越えていない」は重要である。
さて、中杉弘は、3人の思想家の継承者であるとブログにて「宣言」した。
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ここに宣言をしておく必要がある。私は小室直樹先生、渡部昇一先生、三島由紀夫先生の後継者である!
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi/entry-12296618694.html
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この宣言、人生を完成させる意味を含んでいると私は思う。
この種のことについて、老後の暇つぶしと揶揄される方がいる。私もそう批判されたことがある。が、私は、こう反論したいと思っている。
「他ブログにない、提言もの、分析ものを扱っていて、それなりの業務専門性確保を意識して書いているものが、暇つぶしでできるのか」
中杉弘は、一人の日本人として時代を越えて語り継ぐべきものは「日本精神」だとしている。
暇つぶしでできることではない。
戦前・戦後・そして今において、「日本精神」の意味するもの、今日的な意味において受け入れられるもの、次世代の人たちに継承すべきもの、そういう時系列的な流れを意識しつつ、心ある人一人一人に等しく課された最後の宿題のようなもの、私はそう受け止めている。
―― 参考情報 ――――――――――
継承すべき日本の思想家と「日本精神」について
http://sokokuwanihon.blog.fc2.com/blog-entry-574.html
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ある人は、ある本に書いてあることをそのまま引用し、それが日本精神です、と自信たっぷりに言うだろう。が、それは、言論人自身が、自己紹介の際に、私は「真正保守です」、「愛国保守です」と紋切型で語るのと変わりがない。
本当の愛国者は、そう派手に語らない。
ホンモノは、いつの世も地味なものだ。それでいて存在感はある。
何を以て日本精神とするか、思想哲学として何を継承すべきか、答えは一つではない。
組み合わせ的には星の数ほどあるだろう。
だが、時代を越え(日本人が日本人たる)主要テーマ(渡部昇一はこれを「歴史の虹」と定義している)を見出すことを念頭に入れ、政治哲学や歴史について学び直し、オリジナルの境地を見出した人が辿りつける世界ではないか。そう言いたいのである。
以上
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