民進党合流騒ぎで舞い上がっておられる方が多数おられるかもしれない。
為すことを為していれば、どうでもいいことと私には思える。
本稿では、三島由紀夫、渡部昇一が提唱した「歴史の虹」の視点を通して、総選挙後の国会審議の意義について、論考を試みる。
本題に入りたい。
必然か、どうかはわからないが、
私の中において、日に日に、三島由紀夫の存在が大きくなってきている。
三島由紀夫の本を読み始めたこともある。
が、三島由紀夫が自決した日に主張されたことが、今度の国会でやっと本格的に審議、政治的に実現するような気がしている。
そして、今年も、もうすぐ三島由紀夫の命日、11月25日がやってくる。
今までは、特別な日ではなかったが、昨今の政治情勢から、総選挙後の国会運営含めて、今年の11月25日は、戦後政治史上、何か重大なことが起きそうな予感がする。
トランプ来日、来日中の国会で、何か口火を切って発言するだろう。
安倍首相は賛同する。戦後史上、初めてとなる安全保障関係のタブー視されてきた事項の実施ベースの審議が本格化する。
三島由紀夫にとって待ちに待った日ということになるだろう。
それゆえ、今年の11月25日に何かが起きる!そんな期待を持っている。
私の愛読書は、今は「高貴なる敗北」である。それまでは、別の、処世術的な性格を有する本だった。「高貴なる敗北」、新刊書が出た時、書店で手にとった眺めた記憶はある。が、買わなかった。最近になって、どうしても所蔵したくなり、数千円で購入した。
「高貴なる敗北」という本、三島由紀夫の死に触発されて書かれた本である。
著者アイヴァン・モリスは、日本の歴史、文化に造詣が深い方である。私は、許されるなら、棺桶の中に入れ、あの世においても読みたい本だと思っている。
ここで、「樅の木は残った」という大河ドラマ、御記憶にあるだろうか。私は、大河ドラマの最高傑作であると思っている。
このドラマ、平幹二郎が主演、伊達藩お家騒動における、逆臣の生き様を描いている。竹林をバックに、どこか悲しげで寂しげな表情の能面が登場する番組冒頭の雰囲気は、「逆臣の死の意味」を暗示している。
私は、当時、緊張感を以て、毎週このドラマを見ていた。非常に多感な時代にこのドラマに遭遇した関係で、このドラマが、NHK大河ドラマの最高傑作であるとを今も疑わない。
実は、2日ほど前、1年も前の平幹二郎死去のニュースを直前の産経サイトで見つけた。気になって調べ直し、「樅の木が残った」という大河ドラマが放送された年と、三島由紀夫が自決した年が一致していることに気づいた。
「樅の木は残った」が放送されたのは1970年(最終回は12月27日)
三島由紀夫自決の日は1970年11月25日(水曜日)。
タイミング的に重なっている。
「樅の木は残った」のドラマ冒頭の画面に現れる「どこか悲しげで寂しげな表情の能面」、それは死者が亡霊となって現世に何事か、働きかけていることを意味する。
||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||
https://syukatsulabo.jp/word/449
能の登場人物
能の主人公は「シテ」と呼ばれ、神や亡霊、人間の男女、天狗などを演じます。
シテの相手役は「ワキ」と呼ばれます。ワキはすべての能に登場しますが、シテとは違い「生きている人物」を演じます。
その他に「ツレ」や「ワキツレ」、「トモ」などありますが、能ではシテとワキのみで進行していくことも多く、最小限の登場人物で構成されています。
||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
私は、当時、三島の小説は金閣寺しか読んでいなかったが、「樅の木は残った」のドラマ冒頭の画面(有名な能面が出てくる)は数々の三島小説の雰囲気と符号するような気がする。
―― 参考情報 ――――――――――
最後的樅木 (樅ノ木は残った) 總集編 下部
https://www.youtube.com/watch?v=eYCUE1xOvnM
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戯曲等の作品が多い、三島由紀夫は、このドラマをどう見たか。私は気になっている。
なぜなら、三島由紀夫は戯曲作家であったからだ。多くの作品を残している。もし私が戯曲作家なら、自分もあのドラマの冒頭に登場した能面の如く、戯曲の主人公となり演じたいと考えるだろう。
実際、三島由紀夫は、「近代能楽集」という本を出している。私は読んでいないので詳細は知らないが、三島はこう考えたかもしれない。
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NHK大河ドラマの視聴者は逆臣の武士の生き様を感動して見入っているではないか……………
有名人である自分もいつかそうありたい!…………………
そしてあることを日本国民に呼びかけ覚醒を促したい!………………
日本文化を誰よりも愛する愛国的な戯曲作家ならそう考えて不思議ではない。
シナリオ的には、こうなるだろう。
日本の政治の現状、そして日本の将来を憂い、自分にできる何かをすることで、人々に何か問題提起………………
次世代の起爆剤とすべく、自らが戯曲の主人公を演じる……………
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あの日、「樅の木は残った」の最終回は近づいていた。NHKの視聴者は、逆臣の武士が実は誰よりも義に生きた武士だったことを次第に知ることになる。
我々は、我々にしかわからないDNAを通じて共有化する………………
では、三島が用意した戯曲のシナリオの一般的評価はどうだったのか、ということになる。
一見すると、法律違反行為があったので、容疑者であるという評価となるだろう。それでもいいと三島は考えた。
「樅の木が残った」の原田甲斐は見事にそう演じたではないか。
しかし、気づいてくれる人は今はいなくても、気づいてくれる人は将来必ず現れる!!
樅の木はすべてを見ている………………
「歴史の虹」の視点で眺めてみたい。
私は、「高貴なる敗北」を読んで、三島だけでなく、多くの勇者が継承してきたものが何であるかを理解した。平泉澄が「少年日本史」で書き、渡部昇一はその遺作「渡部昇一の少年日本史」で平泉澄を尊敬、歴史観として継承していることを表明した。
―― 参考情報 ――――――――――
渡部昇一の歴史観
http://nihonshitanbou.blog.fc2.com/blog-entry-409.html
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平泉澄の「少年日本史」に貫かれているもの、それは脈々と続く、「自己犠牲の精神、自己犠牲の美学」である。
そして、もう一つ偶然が重なっている。
「高貴なる敗北」が参照しているであろう、平泉澄の「少年日本史」の初版日は、驚くなかれ、1970年11月1日である。
平泉澄の「少年日本史」の最終章は、大東亜戦争である。
渡部昇一は、日本史の「歴史の虹」は、(本当の)日本人でないと見えないと断定している。
―― 参考情報 ――――――――――
中韓に阿り皇室をないがしろにし日本が嫌いな歴史学者・研究者には「歴史の虹」は見えない
http://nihonshitanbou.blog.fc2.com/blog-entry-411.html
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しかし、不思議なことに、渡部昇一は、三島由紀夫の自決にはふれていない。私が読んだ限り、渡部昇一は、三島由紀夫について語らないようだ。
理由はわからない。
渡部昇一はクリスチャンである関係で、自決について述べることを躊躇った可能性はある。イエズス会に近い立場にあったことが影響したかもしれない。本の出版化について差し障りがあると考えたかもしれない。
ただ、私の心に映る「日本史上の、歴史の虹」を眺めると、現代においては、「三島由紀夫の自決」が「最後の重大事件」のように見える。
皆様はどうであろうか?
ひょっとすると、(平泉澄の少年日本史を肯定する)渡部昇一が見た「歴史の虹」の最後もそうだったのかもしれない?と考えられないか。
三島由紀夫と交流があった石原慎太郎の視点で眺めてみたい。既に議員引退したが、その志は引き継がれれている、とみていいだろう。
―― 参考情報 ――――――――――
【石原慎太郎 日本よ】三島由紀夫氏と一致した「自己犠牲の美徳」をあの男に見た
http://www.sankei.com/column/news/161219/clm1612190005-n1.html
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私は、デビュー当時の黒田投手の姿を覚えている。負けが確定した試合で、最後まで生きの良い球を投げ続け、何度も完投負けした。負け試合でも決して手を抜かない凄い投手だった。そうやって黒田は勝ち星を増やしていったのである。
大リーグでもそうやって勝ち続けた、本当にタフな投手だった。
政治の世界にこういうタイプを見かけることは少ない。どの政治家も泥を被ることを恐れているように見える。
さて、保守活動界では、元楯の会会員だった、村田春樹が活動を本格化させている。
選挙後の国会においては、北朝鮮問題で、憲法改正が国会審議日程にのぼることが確実視され、核武装について国会審議の中でやり取りされるだろう。
これらは、偶然そうなったのであろうか。それとも北朝鮮問題で仕方なく、そうせざるを得なかったのか?
「志の継承」という視点から眺めてみたい。
すべては、三島の志が広く引き継がれ、共有化され、次の国会で、その志がやっと結実しようとしている、可能性はないのか?
あちこちで三島由紀夫にちなんだ、講演、勉強会、イベントが今も各地で続いている。私は知っている。保守政界は、三島を忘れてはいないのだ。
そして、今、我々が直面しなくてはならない政治課題、それは三島由紀夫が、あの日、あの市ヶ谷の自衛隊駐屯地のバルコニーで叫んだ時に明確に示したものと同じではないのか!
これは、現時点において保守政界が共有化すべき「虹」ではないのか?
皆様に見える「歴史の虹」において、日本史上の最後の重大事件は何だったのであろうか?
私個人の見解はこうなる。
私は、少年時代、三島由紀夫の自決を、衝撃を以て受け止めた。
日にちは多少前後するが、逆臣の武士原田甲斐演じる「樅の木は残った」の最終回を衝撃を以て視聴した。こんな武士が本当にいたのか!信じられない思いだった。
当時は、三島由紀夫の自決を「自己犠牲の美学」だと思う人はいなかったかもしれない。が、理解する人は理解したはずだ。
少年だった私も、三島の当日の言葉を理解することは難しかったが、語られたことは新聞記事で読んで、ノンポリだった時代も忘れることなく、今も記憶している。自衛官からの野次も、あの鉢巻姿も!である。
一方で、多くの国民は「樅の木は残った」を視聴し感動、日本人に宿る自己犠牲のDNAを再確認したはずだ。
私は、三島由紀夫の死と「樅の木が残った」を同列のものとして眺めている。
なぜなら、この二つに共通しているもの。
それは、「高貴なる敗北」であるからだ。
まとめに入りたい。
1970年11月、三つの出来事があった。
三島由紀夫の自決
大河ドラマ「樅の木が残った」の悲劇の始まり?
平泉澄の「少年日本史」の初版
「歴史の虹」的には、連動していると見るべきだろうという結論に達する。
本稿では、そのことを説明したつもりだ。
私は、愛国者と言えるほどの人物では必ずしもないが、
「最高の愛国者とは、国家のために敢えて悲劇的な死を選ぶ人」ではないかと、
思いつつある。
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