小池新党の支持率が読売世論調査結果によれば、自民党に次ぐ二位に踊り出たようだ。
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http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2017/news1/20170929-OYT1T50131.html?from=ytop_top
自民34%、希望19%…比例投票先・読売調査
2017年09月30日 06時05分
特集 世論調査
読売新聞社は、衆院が解散し、民進党が希望の党への合流を決めた直後の28日夕から29日にかけ、緊急全国世論調査を行った。
衆院比例選での投票先は、自民党が34%で最も多く、希望が19%で2番目だった。「10月10日公示・22日投開票」の衆院選は、自民と希望を対立軸とした「政権選択選挙」となりそうだ。
このほかの投票先は、公明党6%、共産党5%、日本維新の会2%などの順で、「決めていない」が25%だった。自民党が衆院選で圧勝した2014年の解散直後調査では、比例選投票先は自民党41%、民主党14%、公明党6%などの順だった。民進党は希望の党への合流を決めたため、比例投票先の調査対象には含めなかった。
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2017年09月30日 06時05分
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保守の大連立が実現しそうな雲行きになってきた。
ただ、懸念していることがある。
政権内部において、気に入らない議員を、あの議員は愛国的でない、とか、あの議員は保守的でないと、内部で批判が横行することである。
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http://netgeek.biz/archives/103627
小池百合子率いる希望の党に民進党議員が合流した件についてジャーナリストの有本香が裏話を暴露した。
本当は小池百合子のことをめちゃくちゃ嫌っている。
有本香「希望の党の立ち上げだとか言って拳を振り上げていた人たちいるじゃないですか?あの中の複数の人たちが、小池さんのことが大っ嫌いだと。もうこの選挙さえ終わればすぐにでも離党したいと。そこまでの人たちですよ。いや~もうね、呆れ返ってものも言えないよね本当に」
竹田恒泰「この選挙を見ていると人間の一番汚い部分がうわーっと出ている感じがしますよね。だから世のため人のために政治をしているのではなくて、自分の食い扶ちを繋ぎたい、メンツを繋ぎたい、そこですよね。つまり選挙までのことしか語らない」
有本香「そうね!」
竹田恒泰「その先のことはどうでもいいわけです」
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世の保守系言論人の中には、終戦記念日に首相が靖国参拝しないことがけしからん、許せない、安倍首相は愛国者ではないと主張される方がおられる。
また、あの人は保守ではない、という言い方で他人を批判するケースもある。
そう批判する方、どのケースも「愛国者」、「保守」について定義したうえでの批判ではない。
ただ、これらの言葉の定義は非常に難しい。
福田恒存の次元においてすら。
本稿では、そういう次元の批判が、論理的に妥当なものなのか、検証を試みる。
「愛国者」という言葉がある。
世の中には、頼まれもしないのに、自らが、「私は真正保守です。愛国保守です」と語られる有名人がいる。(ツイッターのプロフィールを問題視しているのではない)が、私が出会った、大正生まれ、昭和初期生まれの愛国者たち(言動からそう判断)は、自ら愛国者と言うことを躊躇った。
これは何を意味するのか?
本当の愛国者と、「自ら進んで私は真正保守です。愛国保守ですと語りたがる」愛国者の違いがあるような気がするのである。
では、「自ら進んで私は真正保守です。愛国保守ですと語る」愛国者たちは、「愛国者」という言葉を定義してきたのであろうか?
ここで、「愛国者」という言葉を「愛国心」に置き換えて考えたい。
「自ら進んで私は真正保守です。愛国保守ですと語りたがる」人たちは、「愛国心」を理解しているのか、定義して使っているのか。私にはそうは思えない。
そうは思えないのに、「愛国心」という言葉を乱発したがる傾向にある。あの錯乱保守が該当するだろう。
定義もせず「愛国心」という言葉を振り回す人、本当に「愛国心」をお持ちなのか?という疑問が湧く。
街頭演説やテレビ番組にて、「愛国心」という言葉を連発されればされるほど、聞かされる人は興ざめするはずである。そう語る人に要求されているような気になる。他人に「愛国心」を要求する一方で、自身の「愛国心」が不問となることはありえない。
私は、「愛国心」をこう定義したいと思っている。
愛国心とは、「国家の危機に際して、その立場において為すべきことを為す、心がけの総称」
愛国者とは、「国家の危機に際して、その立場において為すべきことを為す、心がけを実行する人、もしくは、しようとする人」と定義できるかもしれない。
ここで、「終戦記念日に首相が靖国参拝しないことがけしからん、許せない、安倍首相は愛国者ではないという主張」の意味を考えたい。
そう批判した愛国者?は、「自身が、国家の危機に際して、その立場において為すべきことを為す、心がけを実行する人」であるか、証明する義務を負うことになる。
定義的には、他人だけに向けられるものではなく、自分にも等しく当てはまると考えるのだ。
言葉を定義し、その意味を理解していない場合、その言葉を使っての批判は妥当ではなくなるのだ。
すなわち、未定義あるいは言葉の意味を理解せず、他人を批判する行為は、最終的には自分が天に吐いた唾が自分の額に落ちる、民進党の国会審議で起きたブーメラン現象と同様、自分に帰るのである。
従って、錯乱保守がやっていることは、「愛国心」を理解せず、自分のビジネス目的のために他人に要求し続けている、という評価になるのである。
そして、もう一つ、こういう見方ができるかもしれない。
定義的には、「最高の愛国者とは、国家のために敢えて悲劇的な死を選ぶ人」ではないか、と私は思っている。
同時に、そう理解、定義するがゆえに、私は自ら愛国者であると語ることを躊躇っている。
厳密に定義するとこうなるのである。
国家のために悲劇的な死を選ぶはずのない人が、他人を愛国者でないと批判する資格があるはずもないのである。
それゆえ、(「愛国」という漠然とした)言葉を定義せず、その言葉を使って批判文を書きたがる言論人、言い換えると、批判文しか書けない(書かない)言論人は、スキル的な点だけでなく、その(政治的)主張において、致命的欠陥を有しているという結論に達するのである。
なお、これは私見である。
愛国心、愛国者という言葉の真の意味は、国を思う人のそれぞれの心の中に宿る性格のものと私は考えている。
以上
この記事へのコメント
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>定義的には、「最高の愛国者とは、国家のために敢えて悲劇的な死を選ぶ人」ではないか、と私は思っている。
これを国家が涵養したり強制したりすることがすなわち国家主義と言えるのではないでしょうか?
教育勅語はまさにこのような精神のもと制定されたと言って過言ではありません。
愛国などという言葉は統治者によって都合よく利用されたりするものです。