本稿は、ビジネススキル的視点から、政治の世界において議論を成立させるための手法、現実的には、国会での与野党の質疑、ネット上で議論する場合に起きている、「議論がなかなか成立しない事象」を想定し対応策としてまとめたもの。
時々であるが、質問を受けたり、見解を求められることがある。
回答や見解を求められた場合、私は、事実、推測、意見を区別して書くようにしている。
が、相手はそんなことにお構いなく、事実、推測、意見の区別が付きにくい文章を書いて議論を進めようとすることがある。
これを「荒らし」と認定することは簡単だ。
野党の国会議員の中に、事実、推測、意見の区別がついていない議員もいるようだ。閣僚の皆さんは、「文章作法すら身についていない、断定調、指図調、けんか腰、強圧的な野党議員」への対応に苦慮しているかもしれない。
同様に、菅官房長官も、「同じ趣旨の質問を何度も繰り返す、東京新聞の馬鹿女記者」の扱いに手を焼いているかもしれない。
断定調、指図調、けんか腰、強圧的な言論手法を多用する輩には、ある共通した傾向がある。
それは、たった一文にてすべてを表現しようとする傾向があることだ。
ただ、事実、推測、意見を区別することなく、たった一文で分析結果だとすることについて、はなはだ違和感を覚えている。
理科の実験レポートを思い出していただきたい。
たとえば、ある素材の物性等を分析するために行われる実験という行為において
どういう前提条件で(室温など)
どういう素材について
どういう実験機材を揃え
どういう風に配置し
どういう手法で(科学的に再現性ある手法として確認されている方法)
いつ
誰が
どこで
実験を行い
どういう数値、傾向、ないし数値予測が得られたか
あるいは何も結果が得られなかったか
その結果を記述することになる。
これは理科系的発想に基づく、(実験上の)分析結果の要件定義である。
ここに、感情とか意見が入る余地はほとんどない。
ただ、世の中には、こうした実験計画なしに、手当たり次第に実験を続行、データを収集、その中の「都合の良いデータ」だけを選び、営業行為する輩がいる。
実験計画書も実験レポートを示さず、口頭にて、こういう数値が得られた、こういう傾向があると熱心に力説される方が、社内の研究所の管理職の中におられた。
しかし、私は、職責上すべて却下した。文書としてのエビデンスが示されていなかったからだ。
彼らが口頭で力説する目的は何か、社外であれば顧客獲得、社内であれば予算獲得するためである。
一種の「騙しの手法」に似ている。
では、まともに実験し、まともな文書エビデンスを準備する場合はどうなるか?
分析データと見解を区別して扱う。
文章的には、こういう分析結果が得られたので、こういう見解となる。あるいは、こういう分析結果が得られたが傾向がはっきりしないので引き続き実験を行う……………
つまり、分析結果としての意見表明(いわゆる所見)は、「分析結果についての客観的な情報の所在」が確認されて初めて可能となるのである。
つまり、分析した結果として、それが分析結果に基づく「意見」だというのではあれば、分析結果単独の「客観的記述」がなくてはならない。
手当たり次第に実験を行い、都合の良いデータのみで営業活動する人は、この逆である。
従って、文科系の人たちが、たった一文だけ書いて、それが分析だと主張するのは、はなはだ説明不足ということになる。理科系の世界で言うところの、実験レポート省略したか、実験で得られたデータの中の都合の良いデータだけを選んだ場合であろうと経験的に認識する。
その悪しき代表例は、朝日の社説である。一言で言うと読むに耐えない悪文。文章作法的にも悪文である。客観表現が少なく、あるいは、合理的根拠に基づかない論説を論説と言うのであろうか。
従って、こういうやり方で政治的主張をする人を相手にする必要はない。
言論界全体の「荒らし」と扱ってもいいくらいなのである。
なぜなら、理科系の世界でいう、実験による分析レポートがほとんど見当たらないからである。
しかしながら、それでも、たった一文でそれが「分析」だと主張する場合の議論において、無理やり議論を成立させる方法はある。
それは、書かれていることについて書き足して、元の文章の2~3倍程度の文章量に膨らませ、この意味で間違いないかと相手に確認する行為を経ることである。
一種の翻訳行為に近い。英語の世界でいう、英英辞典を使う行為と似ている。そこにある日本語を別のわかりやすい日本語に置き換えて、ほとんどの日本人が同じ理解となるよう翻訳し直すことになる。
実は、業界団体出向時に、同じ業界人相手に同じ言葉を使って、さっぱり意味が通じない経験をしたことがある。おそらくであるが、彼らの会社ではその用語(辞書に載っている日本語として)を社内で使用することがなくどう反応していいかわからなかったのではないかと推測する。
関東に本社がある企業と関西に本社がある企業で、方針伝達、意志決定手順において微妙に異なるケースもあるようだ。
方言の違いでそうなるのではない。企業文化が異なるからそうなると私は解している。同じ会社で、技術系と事務系で同じ言葉なのに、意味が微妙に一致しないケースもあった。中でも労務系の人たちは、労使交渉取り纏め経験などからファジーな言葉の意味を理解・共有化する能力に優れていたように思う。
よって、わかりやすく書く意味、わかりやすく書き直すことは実務的に経験してきた。
ただし、一般的には、説明不足の相手、説明不足の文章に付き合う必要はもちろんないし、その義務もない。
まして、主義主張が異なる相手に対し、「書いてあることについて理解不能なので、文章を膨らませて同じ意味になるように書き足したが、これで間違いないか」と確認する義務は私にはない。
私は、そんな議論に付き合うほど暇ではない。
以上
この記事へのコメント