本稿は、人生論に係わるもの。人生観に係わる私見なので、読まれた方について同じ価値判断であるべしと述べるつもりはない。
拙ブログは、老人の社会における役割についてかく提言した。
―― 参考情報 ――――――――――
老人が社会に対して為すべきこと たった一人の言論の力
http://sokokuwanihon.blog.fc2.com/blog-entry-861.html
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では、尊敬する渡部昇一は、遺書に該当する、「渡部昇一の少年日本史」にてどう述べていたか、参照したい。
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渡部昇一の少年日本史
はじめに
12~14頁
ここで大切なのは、歴史的事件や歴史的事実をすべて積み上げてみても歴史にはならないということなのです。わかりやすい例をあげてみましょう。皆さんは毎日、新聞やインターネットでさまざまな情報に触れていると思います。それらにはさまざまな事件が起こったことが報道されていますが、そんな情報の一つひとつを集めて一年、五年、十年と積み上げていけば、それは歴史になるのでしょうか?実はそう簡単にはいかないのです。歴史的事実をどれだけ積み上げたところで、それは歴史とは言いません。
では、歴史とはなんだろう?イギリスのバーフィールドという学者は歴史を「虹」にたとえて説明しています。雨が降った後の空には無数の細かい水滴が残っています。この細かい水滴の一つひとつが歴史的事実なのだとバーフィールドは言います。毎日の新聞に記録されているような事件ですね。でも、この水滴をいくら集めても虹にはなりません。
ところが、この水滴の集まりをある確度から、ある距離をとって眺めると、はっきりとした七色の虹となって見えてきます。虹というのは不思議なものです。もっと近くに行ってよく見たいと思って近づきすぎると消えてしまいます。逆に、遠くに離れすぎても見えなくなります。今見えているのと違う場所から見ようとしても、見る角度が合わなければ見えません。美しい虹を見るためには、敵様な角度と距離が必要なのです。
さて、歴史は虹のようなものだと言った意味がおわかりでしょうか?水滴をいくら集めても虹にはならないように、歴史上の事実や事件をたくさん集めても、それは歴史にはならないのです。歴史というのは、水滴のように限りなくある歴史上の事実や事件を適当な角度と距離をとって眺めることによって浮かび上がってくるものなのです。
ある角度というのは、たとえば日本という場所を考えるといいでしょう。日本の国に住む国民の目にだけ見える歴史があるのです。距離というのは一定の時間と考えてみてもいいでしょう。そのときにわからなくても、時間が経つとはっきり見えてくる歴史の真実というものがあるのです。
つまり、この虹というのは、無限の歴史的な事実や事件の中から、ある国の国民の目にだけ七色に輝いて見えてくるものなのです。そういう歴史を「国史」(=国民の歴史)と呼びます。そして、そのような歴史の虹を見るためには正しい歴史観を持つことが大切です。
ところが、最近の歴史研究は、しばしば水滴だけの研究をいう傾向があります。もちろん水滴とはいっても歴史的事実を一つひとつ研究することは尊いものですし、尊重すべきです。しかし、それだけでは決して虹にならないということを、まず頭の中に入れておくことにしましょう。これが歴史を考えるうえで覚えておいてほしい第一の点です。
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あとがき
315頁
本書の『少年日本史』というタイトルですが、昔、私も尊敬する平泉澄先生という立派な歴史家が同じ題名の本を書かれています。平泉先生はプロの学者の視点から『少年日本史』を書かれましたが、その歴史観は私と同じようなものだったと聞いております。一方、私は自分が歴史学の素人であるという自覚を失ったことはありません。そういう立場で日本という国を見たときに、どのような輝ける虹が見えるだろうかということを常に考えてきました。そして、これこそ日本人が見るべき虹だと思ったことをこの本の中で語りました。虹を見るということについては、プロであるとか素人であるとかは関係ないと思っています。
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実に、淡々とした書きぶり、澄み切った境地で書かれたものであることについて疑う余地はない。
また、この本には、過去の渡部昇一のそれまでの本にまったく書かれていないことがあとがきにて書かれている。それは、歴史家として平泉澄先生の継承者であると宣言していることにある。
以前からそうだと思ってきたが、やはり平泉澄先生を意識して歴史書を書かれたと告白された点において、遺書にふさわしい。
つくる会発足後に刊行された、「国民の歴史」のあとがきと比較してお読みいただきたい。
―― 参考情報 ――――――――――
名著「国民の歴史」の「あとがき」は書き直さなくていいのか?
http://nihonshitanbou.blog.fc2.com/blog-entry-444.html
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西尾幹二は全集に掲載するに際して、あとがきについて手直ししただろうか…………………
一方、つくる会に参画した一人、西部邁は晩年、かような見解を示している。
―― 参考情報 ――――――――――
西部邁氏「安倍は保守じゃない。私は保守という言葉を理解しようとしない人々に憤りを込めて『ジャップ』と呼んでます」
http://hosyusokuhou.jp/archives/48802360.html
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東大出の学者、保守論壇を牽引してきた言論人にしては、情けない。
それ以外の言葉が見つからない。
60歳年下の金メダリストの羽生選手の発言と比較したい。
―― 参考情報 ――――――――――
帰国会見速報(2)羽生結弦「みなさんの応援のおかげで取れた金メダル」
http://www.sankei.com/premium/news/180226/prm1802260009-n1.html
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どちらが人としてマトモか説明するまでもない。ノブレス・オブリュージュを理解する人と理解できない人の差であろう。
西部邁については、一世代若い中川八洋と比較して、業績的に足下にも達していない気がする。政治に関しては、学術的でなく、体系的でなく、かつわかりやすく説明しようとしない人だった。
晩年の発言は、東大卒の劣化を象徴するものであった。
私は中川八洋よりも一世代下の世代に属するが、安倍政権支持率(次世代の党の支持率を含め)が高いという理由で、若い世代に対し敬意を払っている。彼らに期待しているのだ。
従って、後期高齢者世代については、左翼もおかしいが、保守も(マネすべきでない)変なのがゴロゴロいるという見解となる。
が、復活した名ブロガー「中韓を知り過ぎた男」が病をおして書かれたと思われる、羽生選手が金メダルに至った背景、晩年の生き方について、かく述べられている。
―― 参考情報 ――――――――――
金メダルは神様からの贈り物 2月21日(水)
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-1144.html
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一読すべき内容と思う。
いささか宗教がかった内容の本ではあるものの、トルストイの名著「光ある中に光の中を歩め」(新潮文庫)に匹敵する名文であると思う。
こういう味のある、文章が書ける人こそ、保守言論界のオピニオンリーダーにふさわしいし、生き様として晩年はこうありたいと私個人は願っているところである。
以上
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