この現象について、呉善花は歴史的経緯から解説している。
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韓国併合への道
呉善花
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朝鮮半島には、日本やヨーロッパのように武人が支配する封建制国家の歴史がない。中国と同じように、古代以来の文人官僚が政治を行う王朝国家が、延々と近世に至るまで続いたのである。併合の主体となった日本は近代国家であったが、併合されたほうの国家の実質は、近代国家でも封建国家でもない王朝国家だったのである。
21~25頁
派閥、一族の紛争に明け暮れる社会
李朝ほど強固で長く統一を保持し続けた王朝国家は例がないと言われるが、李朝の統一は、社会とか民族とか、大集団の利益の大局的な一致によって維持されたのではなかった。その逆に、バラバラに分散した個が一様に中央の一点を目指す、「周縁から中心へ」と向かう一極集中のダイナミズムによって保たれていたのである。
別の意味で言えば、横のつながりを失った無数の極小集団(主として家族)が、それぞれ自己の利益を目指し、中心の権威という甘い蜜に向かって猛然と突き進む、という力学によって維持されたのである。
人々がさまざまな利益を軸に結びつき、さまざまな社会集団を形成して社会活動を展開することー李朝ではこれが極端に阻害された。そのため人々は、唯一残された血縁という小集団(父系血族集団としての家族)に自らを囲い込むしかなかった。李朝の社会をよくも悪しくも動かしたのは、各自が所属するこの血縁小集団の繁栄へと向けられたエネルギーであった。そしてその繁栄は、事実、権力に接近すればするほど保証されるものであった。
そのように、少しでも中心へ近づこうとする「中央志向の共通性」が社会的なリアリテイとして確保されている限りは、活気に満ちた社会があり得る。しかしながら、世襲による権威・権力・身分の固定化が進む末期となると、もはや多くの人々にとって中央的な価値は手が届かないものとなり、遠くから羨望するしかないものとなっていく。こうして社会からは急速に活気が消え失せていくのである。そして、中央的な価値に手を触れているわずかな人たちの間で、限られた価値をめぐっての争奪戦が激しく展開されるようになっていく。
このような李朝末期、一八六〇~七〇年の社会を体験した一人の西洋人は、次のように描写している。
「一般に、政治的活気とか進歩、革命といわれるものは、朝鮮には存在しない。人民は無視され、彼らのいかなる意見も許されない。権力を一手に掌握している貴族階級が人びとに関心を向けるのは、ただ彼らを抑圧してできるだけ多くの富をしぼり取ろうとするときだけである。貴族たちは、いくつかの派閥に別れ、互いに執拗な憎悪をぶつけ合っている。しかし、彼らの党派は、なんら政治的、行政的原理を異にするものでhなく、ただ尊厳だとか、職務上の影響力のみを言い争っている大義名分だけのものである。朝鮮におけるい最近三世紀の期間は、ただ貴族層の血なまぐさい不毛の争いの単調な歴史にしかすぎなった」(シャルル・ダレ著/金容権訳『朝鮮事情』東洋文庫・平凡社)
中略
「貴族階級」と表現されているのは、先に述べた李朝の国家官僚となる資格をもった支配階級、文班(文官)と武班(武官)を総称して両班と呼ばれた者たちのことである。
両班たちの「不毛の争い」が李朝末期にいっそう激しいものとなった第一の理由は、両班人口の増大にある。官職を得られなくても両班身分は世襲されたから、金で両班の地位を買ったり、ニセの資格証を売ったりということが、十数世代も繰り返されてきた結果、あやしげな自称両班が膨大に増加したのである。
京城帝国大学教授だった四方博氏の計算によると、両班人口は一六九〇年には総人口の七・四パーセントだったが、一八五八年には、なんと四八・九パーセントにまで増加しているのである。(「李朝人口に関する身分階級別的観察」『京城帝国大学法学部論集・朝鮮経済の研究3』所収)。
人口の半分が支配階級の身分などという国がどこにあっただろうか。
彼らの職分は官僚であり、官僚以外の職につけば両班の資格はなくなる。しかし官職は限られている。というわけで、彼らの多くはなんら働くことなく、ただ官職獲得のための運動を日夜展開した。当然のようにあらゆる不正が蔓延し、両班という身分を利用して庶民から強奪まがいの搾取をすることが日常的に行われたのである。
高級官僚としての両班どうしの争いにも凄まじいものがあった。
彼らはいくつかの派閥のどれかに必ず所属して、派閥間での官職獲得闘争に血道をあげた。その闘争は陰謀と策謀に道、互いに血を流し合うまでに至るすさまじいものであった。この闘争が何百年間にもわたって繰り返されてきた。そのため、派閥間、各一族間の敵対関係がほとんど永続化してしまったのである。
ある派閥が政権を握ると、他の派閥はそれに協力して政治を行うことはない。次の政権奪取を狙ってさまざまな手を打つことに終始したのである。彼らにとっては派閥の主張が唯一の政治的正義であって、他は罰は不正義によって政治を行なっていると考えた。したがって、派閥を超越して王権を支えるという発想はまったくなかった。そのために李朝はついに王党派という存在が生まれることがなかった。
「これらの争いは、多くの場合、敗北した党派の指導者の抹殺を期として終焉する。ふつう抹殺の方法は、武力とか暗殺によらず、首尾よく敵対派の官職を剥奪した側がさらに国王を動かして敵に死を宣告させたり、少なくとも無期の流刑に処したりするのである」(同前書)
しかも、こうした憎悪の関係は父から子へと世襲されたから、果てしない闘争の繰り返しとなるしかなかった。李朝では、先祖が受けた屈辱を子孫が晴らすことは、子孫にとっては尤も大きな道徳的行為だった。
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横の繋がりのない、バラバラな状態に両班階層が陥っていたことが、王権が強力な先生をふるうのに恰好の条件をつくり出していたのである。大院君はさらに横の繋がりを執拗に断ち切って諸勢力の分散をはかる一方、自らへの縦の忠誠を徹底して強化し、一〇年にわたる個人的独裁を可能にしたのである。
この方法は、ずっと後に、李承晩や金日成がとったやり方とまったく同じものである。横の繋がりを分断し、すべてを一点に向かう縦の流れとして組み立てる権力構成は、戦後の韓国・北朝鮮にそのまま受け継がれ、韓国ではいまなお政界、官界、財界から各種民間団体に至るまで、一貫してみられるものである。
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さらに、呉善花は、慰安婦問題、徴用工問題が避けられない、歴史的背景について解説している。
「横の繋がりがないバラバラな状態のバラバラな状態に両班階層」→「横のつながりを失った無数の極小集団(主として家族)がそれぞれ自己の利益を目指し、中心の権威という甘い蜜に向かって猛然と突き進む」→「慰安婦・徴用工利権を獲得しようとする集団が結束し政界中枢に影響力を行使する」
ことを示唆している。
韓国の大統領は、行政、司法、立法という国の成り立ちの横の連携を破壊すべく、自分に都合の良い裁判官を任命し、徴用工事案の賠償判決を導いたと考えれば、説明がつくのではないか、と考えるのである。
以上
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