皇統断絶危機 皇籍復帰の三つの例

本稿は、最近発刊された皇室関係の良書に係わる、提言もの。




政府関係者は旧皇族皇籍復帰をすべきだとしている。

―― 参考情報 ――――――――――

旧皇族の皇籍復帰を=衛藤首相補佐官
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019052101260&g=pol

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水間政憲の最新刊「ひと目でわかる皇室の危機」を購入し読んでいる。
本としては、良書の部類。タイムリーな出版物である。
(臣籍降下なければ、旧皇族皇位継承者の存在を含む)皇室の系図について一般向けに解説された初の本である。本が書かれた目的は、政界やマスコミが何かと話題としてきた女性宮家問題を粉砕すること、今国会での女性宮家論議そのものを阻止することにある。販売部数については、あの空前のベストセラーとなった通史書レベルとなることを私は期待している。




私のこの本の評価は、星四つ半。少し補強すべき点があるように思う。増補改訂版を出せば、さらに評価が上がる可能性があるという意味である。
内容的に気になることについて述べさせていただく。この本では、系図情報はきちんと示されているが、皇籍復活をすべき対象家系、当該宮家に係わる歴史的経緯や皇籍復帰で即位事例についての詳細記述がない。重要な点が対話形式で書かれていることが不満である。

たとえば、対話形式で示された、具体的措置として、88頁に、[特措法で「皇統の安定継承を維持するため旧皇族11宮家からの皇籍復帰を可とし、皇室会議において旧宮家の男系男子の中から推薦することとする」と「現宮家に旧皇族子孫の『男系男子の養子』を受け入れることを可とする」の一文を国会で可決するとある。]と書かれている。




この箇所は、この本の最重要箇所である。この箇所だけは、対話形式で終わらせるべきではないと思う。特に重要な箇所なのであるから、次の①~⑦を第2章皇室関連資料編に追加すべきと考える。

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①皇族外も含めた皇位継承順位表(男系相続・長子優先)
②ルールとしての皇位継承順位設定の考え方に関する説明
③なぜ皇室典範改正ではなく、特措法で対応可能と判断できるのか、についての説明
④手続き的に皇室会議にて推薦という手続きの妥当性に関する説明
⑤現宮家に旧皇族子孫男系男子を養子として受け入れることの妥当性に関する説明
⑥過去の政府検討書
⑦皇位継承に係わる名著リスト

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①については、数年前「皇族外も含めた皇位継承順位」がネットで公開されていた。今後は定期的に最新版を更新しておく必要がある。ただし、身辺保護との兼ね合いもあり、広く公開されるべきものではない。

―― 参考情報 ――――――――――

女性天皇容認論、皇族以外の「男系男子」リストアップ必要か
https://www.news-postseven.com/archives/20190514_1369356.html

竹田恒泰氏は106位?民間人を含めた男系男子の皇位継承権の順位 梶野行良氏や徳大寺公仁氏の名前が挙がる
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-9729.html

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②については、以下が参考となる。

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「一個人」2012年2月号 三橋健氏執筆
皇位継承順位.jpg


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③~⑤については、先行文献からの引用で代用?

⑥は、読みたくない資料だが、以下がある。

―― 参考情報 ――――――――――

皇室典範に関する有識者会議 報告書
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/houkoku/houkoku.html

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⑦は、私の主観で選んでみた。

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皇位継承に係わる名著(一般向けに書かれたもの)

・「女性宮家創設」ここが問題の本質だ! 櫻井よしこ、百地章、竹田恒泰
・悠仁天皇と皇室典範  中川八洋
・女性天皇は皇室廃絶 男系男子天皇を奉載せよ 中川八洋
・皇室消滅 渡部昇一、中川八洋
・皇統断絶 女性天皇は、皇室の終焉 中川八洋
・語られなかった皇族たちの真実 竹田恒泰
・ひと目でわかる皇室の危機 水間政憲

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百田某の本を、出典を示さないパクリ本だと断定するなら、水間政憲も自身が読んで推薦できそうな皇室本を紹介するべきだ。渡部昇一はいつもそうしていた。自身が常にオンリーワン、ナンバーワンであることにこだわる必要はあるのか。書物や文書は目的達成達成のための手段である。なお、中川八洋が、水間政憲が尊敬する小堀桂一郎を批判していることは承知している。中川八洋の著作は、皇室外系図こそないが、小泉内閣時代、他の言論人を圧倒する存在であった。



さて、「語られなかった皇族たちの真実」(竹田恒泰)には、旧宮家に係わる歴史的経緯、皇籍復帰での即位例が示されている。

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世襲親王家とは何か
世襲親王家とは、皇位の継承をより安定的なものにするための制度の一つで、代々親王宣下を受ける特別の家のことである。
皇統断絶の危機に当たっては天皇の「血のスペア」として皇位を継承できる立場を担いながら、側で天皇を支える役割を果たしてきた。傍系の家柄だと理解すればよい。江戸後期には四つの世襲親王家があった。成立が古い順に、伏見宮、桂宮、有栖川宮、そして閑院宮の四家である。

中略

世襲親王家の歴史
初めて実体を備えた世襲親王家、常磐井宮が成立したのは鎌倉時代後期頃である。初代の恒明親王は、亀山天皇の皇子だった。その後代々親王宣下を受けて家を相続し、松代に当たる第六代当主恒直親王の室町時代中期まで、実に約250年に亘って宮家が継承された。続けて成立したのが木寺宮である。初代は後二条天皇の第一皇子の邦良親王で、末代に当たる第六代当主師熙親王の室町時代中期まで継承された。
そしてその次に成立したのが江戸後期の四つの世襲親王家の一つ、伏見宮である。初代栄仁親王(「なかひと」とも読む)は、北朝第三代崇光天皇の第一皇子である。伏見宮は第二十四代当主博明王が昭和22年(1947)に皇籍離脱するまで、約550年間維持されてきた。伏見宮は数多く設立された宮家の中で最も長く存続した家となった。桃園天皇の第二皇子貞行親王が一時当主を担ったほかは、全て実系により継承してきた。私も伏見宮の分家の出身である。そして伏見宮は、既に述べたとおり、皇統断絶の危機に当たって後花園天皇を擁立した経緯があり、万世一系を保つために極めて重要な役割を担った。

また天正17年(1589)に豊臣秀吉が奏請して創設されたのが桂宮で、正親町天皇の皇孫智仁親王が初代となり、その後、継嗣がないときには天皇の皇子が相次いで桂宮を相続した。そして仁孝天皇の公序で桂宮の第十一代当主となった淑子内親王が明示14年(1881)に薨去するまで、約300年間存続した。桂宮からは、皇位を継いだ例はない。

桂宮に続けて設立されたのが有栖川宮である。後陽成天皇の皇子好仁親王が初代となり、高松宮と称したのが寛永2年(1625)。後に有栖川宮と改称され、大正2年(1913)に薨去となった第十代の威仁親王を以って末代になり、300年近く続いた。ただし、大正天皇の勅旨により、有栖川宮の祭祀は、大正天皇の第三皇子宣仁に継承されることとなり、高松宮の称号を賜わった。桂宮、有栖川宮ともに江戸後期の四親王家のうちの二家である。
もう一家、幕末の元治元年(1864)に創設された親王家がある。伏見宮邦家親王の皇子、晃親王に始まる山階宮である。
晃親王は京都山科の勧修寺の門跡となったが、幕末の動乱期に際して徳川慶喜らの建議により還俗し、勅命で宮家を創設した。伏見宮と同じく昭和22年に皇籍離脱により宮家としては終わりを遂げ、武彦王が末代となった。

明治に入り皇室制度が改革され、親王宣下の制度は廃止された。その一方で明治期に天皇の勅命により、新たに十宮家が創設された。

中略

皇籍復帰で即位の例

世襲親王家から天皇を出したのは現在まで三例ある。伏見宮出身の後花園天皇と、閑院宮出身の光格天皇については既に述べたとおりであるが、この二例は皇位継承者が不在という皇統断絶の危機にあたっての即位であった。もう一例は、有栖川宮を継いだ後に即位した第一一一代後西天皇だ。皇位継承をめぐる争いを回避するために暫定的に有栖川宮から天皇になった特殊な例である。

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男系男子宮家復活は、皇籍復帰での即位事例と関連づけることが可能である。

この本では、旧宮家で皇位継承順位が上位である東久邇宮家については、次のような記述がある。

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【東久邇宮】

久邇宮朝彦親王第九皇子の稔彦王が明治39年11月に創立した。十一宮家の中でいちばん最後に創立された宮家である。妃は明治天皇第九皇女である聰子内親王。初代の稔彦王は終戦時に陸軍大将、防衛総司令官。終戦直後に軍部の動揺を抑える役割を担い、皇族として初めての首相となり、武装解除、降伏文書の調印など終戦処理に当たった。GHQの圧力によりわずか54日間で総辞職した。
稔彦王は首相を辞任した直後、昭和20年11月に臣籍降下する決意を表明。稔彦王は「直宮だけを残し、他の皇族は臣籍降下すべき」と意見を述べていた。
稔彦王の第一王子である盛厚王は陸軍少佐。昭和18年、昭和天皇第一皇女照宮成子親王と結婚。これは明治天皇の孫(盛厚王)と曾孫(成子内親王)との結婚となった。成子内親王は昭和天皇の初子であり、今上陛下の姉君に当たる。また昭和20年3月10日の東京大空襲の日に防空壕の中、昭和天皇の初孫となる盛厚王第一王子信彦王を出産した。稔彦王は王子の盛厚王や孫の信彦王たちとともに皇籍離脱した。成子内親王は皇女でありながらも終戦後は鶏や鶉を飼い、卵の卸売りをしたりプラステイック加工の内職をするなどして生活費を工面した。また昭和36年(1961)に35歳という若さでこの世を去ったことなどから「悲劇の皇女」と呼ばれた。

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これらの情報が含まれていれば、よりわかりやすくかつ説得力ある本という評価になるような気がする。



さらに、この本のあとがきに驚くべきことが書かれている。一つ目は、小学館の編集者から竹田恒泰が「竹田さん、あなたが本を書かなければ皇統は守れません。女系天皇が成立したら日本は終わりです」と、出版化を迫られたことである。竹田恒泰はその要請に応えた。
二つ目は、原稿作成した時点で、竹田恒泰は父から言われ、出版化することに一時は逡巡?、それでもなんとかしようと考え、出版化することについて、複数の皇族、宮内庁、あの瀬島龍三に相談したそうだ。瀬島龍三には二度相談。一度目は「皇室典範の政府内議論に逆行するような意見は表に出すべきではない」との見解が示され、二度目は「皇室典範改正私案部分を削除したことを報告したことに対し同意が得られた」と書いてあった。

「語られなかった皇室の真実」という本は、心ある編集者が居て、竹田恒泰が幾多の困難を乗り越えた末に、出版化できた労作であることを知った。



かくいう私も、竹田恒泰の講演を聞き、竹田恒泰の皇位継承順位は100位以下であることを初めて知り驚き、竹田恒泰の意見に賛同、男系男子宮家創設しかないとの結論に達した。

竹田研究会は、その目的のために存在する組織とみていい。

さて、竹田研究会は、「全国のホテルに古事記を置こう!」プロジェクトを開始した。(一般財団法人竹田研究財団 『古事記』編纂1300年記念事業平成24年が古事記編纂1300年の記念すべき年であることに鑑み、当財団では公益事業の一環として、「古事記1300プロジェクト」を立ち上げました。この計画は、一人でも多くの国民が古事記との縁を繋ぐことを目的とします。)

ホテルのデスクの引き出しに聖書ばかり置いてあるケースが大部分だが、あのアパホテルなら最初に古事記を備え付けてくれそうな気がする。

―― 参考情報 ――――――――――

アパホテル 客室設置の書籍について
https://www.apa.co.jp/newsrelease/8325

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売るための劣化本、初心者本、パクリ本ばかりが氾濫している中で、かような難産を乗り越え、埋もれそうになっている本を、私は名著と再評価したい気持ちになっている。


以上

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