騒動に自ら飛び込む必要はない

拙ブログは、本質的な問題でないと考える事案については、テーマとして取扱う気はない。
保守層なら誰もが同じ見解となりそうな、ありふれた事案について、ダメを押すつもりで取り上げる気もない。



まず、川崎ヘイト条例問題の視点から取り上げたい。

川崎での罰則付きのヘイト条例については、条例を根拠とする不当な拡大解釈を阻止すべく、各地の地方議会大で対応強化すべきこと、国政マターとして条例の無効化に取り組むべきこと、二つの政治課題が新たに発生した。

拙ブログは、無名のブログであるが、事の重大性に鑑み、政権与党が後始末として取り組むべき事案であると認識、提言活動を開始した。
一方、長年真正保守だと宣言してきた方の最近の主張は、例によって、大変だー大変だ―の論調である。誰とは書かないが、大変だー大変だーの論調は、言い方は悪いかもしれないが、被害者視点での騒動事案での言い方と変わりがない。
これに対し、小坪議員は、属地主義の理論から、地方議員の立場でやれることすべてを実行に移そうとしている。瀬戸弘幸は、条例化を機に、川崎との係わりは進行中の裁判に特化し、それ以外は一旦距離を置こうとしている。これ以上、騒動化しても得ることはなく失うものが増えるという判断からだろう。

守勢であっても、状況変化を目指し、目先活動している人は誰なのか。手段、シナリオを見出せない言論活動は、無力であることは明らかである。
同じことは、心構え好きな言論活動について言える。最近は、心構えが足りないのは、心構えばかり語る言論人の方だと思うようになった。ビジネススキル的視点から、述べない限り、状況変化は望めない。





マスコミ報道はどうだったか。

マスコミが扱う騒動は、極論すると、騒動に始まり、騒動で終わる傾向が強い。森友・加計だけでなく、桜を見る会事案もしかり。マスコミは今や、政権打倒目的で、騒動を創り出し、騒動を煽る火付け役となっている。その黒幕は、中共大使館であろう。そういう状況であることがわかっているはずなのに、保守陣営は受け身で騒動事案を追いかけて過ぎている。

報道情報だけでも、韓国も中共もおかしい国であることはわかる。北朝鮮などは道理も常識も通用しない国であることが知れ渡った。しかし、冷静な分析が少な過ぎる。
それでも、篠原常一郎の出現によって、TBSなどに集中的に出演してきた、北朝鮮問題の専門家と称する辺真一や外務省OB田中均の存在は、無用になった。TBSの金平が出演する番組含めてである。
これらの人物の言動には、北朝鮮問題に係わる政府方針を騒動化、国民各層を目くらましする任務性が込められているような気がする。

騒動は騒動。騒動は騒動として扱うべきもの。
処理すべき、本丸の政治課題は常に、騒動とは別なところにある。反日勢力は、保守陣営を騒動に巻き込むことで、本丸の議論を回避しようとしている。(特に、憲法改正)




次に、保守ネット界で起きている騒動について取り上げたい。

中韓経済崩壊、韓国ざまあみろみたいなテーマが目立つ。まとめサイトなど、保守ネット界は、韓国に係わる騒動ネタで溢れている。
反日勢力が自由自在に仕掛ける、日々の騒動ネタも多い。
これに反撃すべく、ツイッター界を、第二の活動の場として選んだ保守系言論人がおられるが、騒動に付き合っているだけで、根本的な解決に結びついた試しがない。
何より問題なのは、問題だー問題だー、と騒ぐ勢力の一部に、嫌韓感情を煽っている北朝鮮工作員が居るかもしれない、という疑いを以て眺める人は少ないことだ。
余△ブログも騒動ネタの連続だったはずである。炎上ネタで関心を引き付けようとしたこともあった。なんとか特権で大騒ぎした活動家は今は、あることを怖れてか、ひたすら安全なポジションを確保することに執心しているように見える。要するに、さんざん煽っておいて逃げたということ。

少し距離を置き、少し冷静になってみれば、何が本質で何がどうでもいい事案なのか、見えてくるはずなのだが。





本稿の纏めに入りたい。
はっきり言えることは、目先の騒動(特に韓国ネタを追いかければ追いかけるほど、騒動の中に自分の身を置くことが、政治活動目的ということになってしまうことである。
ゆえに、マスコミが仕掛ける騒動、保守ネット界で起きている騒動、から距離を置き、冷静になり「話題となっている騒動事案について、再発防止対策等の提言などを熟慮する視点」で眺める必要が生じる。


騒動と言論活動は、そもそも次元の異なるもの。
ツイッターでの騒動ネタが多い言論人は、言論活動とは異質なものを言論活動で展開しているのである。これに対し、正統な言論活動は、問題が起きれば、再発防止対策検討、提言、陳情、事を一歩進めることを、最終目的としている。

提言とは、陳情書を意識したもの
陳情とは、官界の稟議書を意識したもの
事を一歩進めるとは、法律の改正ないし、行政機関の対応変化を意識したもの
であるべきなのだが。


どうして、肝心なことを具体的に文章化しないのか?

決定的な場面で、文章化できる言論人が決定的に少ない、、、???
言論人たちは、事を解決に導くよりも本が売れ、講演収入が増えることを望んでいる???

決定的場面で、シュートしない、日本選手のサッカーのプレースタイルと似ている。

騒動とは、サッカーにたとえると、相手チームと味方のチーム20人近くが混然一体となって、球の転がるところ、転がるところを20人近くのプレーヤーが追いかけているのと似ている。グランドは広いのだ。グランド一杯を使わないサッカーをサッカーと言うのであろうか?
将棋の世界では、すべての駒を活用した側が、優勢であるとする解説が多い。そのとおりだと思う。

政治の世界なのだから、攻勢に出るべきときもあれば、守勢にまわることもある。しかし、提言、陳情、事を一歩進めることなど、攻勢にでるシナリオを想定し、ダメ元で陳情したりしない限り、守勢一方となることは明らか。

私は、そのことを憂えているのである。


「万年受け身の、憂国の士」のままでは、状況は変わらない。常に、受け身で騒動に付き合わされる状況は続くのだ。もちろん、騒動の中、ひたすら心構え論を説いても、何も変わることはない。


それが係わることが避けられない騒動であったとしても、最低限、再発防止対策の提言ができなければ、提言する能力なければ、言論人それぞれが当事者としての「対応能力なし」とみなさざるを得ないのである。


以上

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