理論解析の多くが失敗に終わる理由

池田信夫ブログにて、「コロナウイルス感染理論」に関連し専門家(専門家と称する人を含む)の独自理論?が紹介され、紹介された試算結果が現実と大きく乖離する原因について、考えていた。

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池田信夫 blog
http://ikedanobuo.livedoor.biz/

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偶然読んだ、ある本に学者(専門家)の理論先行の研究態度について書いてあり、なるほどと思う箇所があったので、以下に紹介させていただく。

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定年後の知的生産術
谷岡一郎

73~74頁
その道の研究者泰斗と呼ばれる人々は、まず特定理論から入って、現実をそれに当てはめようとする傾向がある。自分の理論を信じれば信じるだけ、他の可能性を否定し、本来なら考慮すべき事柄も切り捨てられたり、無視されたりする可能性が高まるのである。
この傾向が起こるひとつの理由は、学界などに提出される論文のほとんどが、その形式ーつまり理論が始めにあり、それを補強・証明しようとデータを集めたり、分析・論証したりするやり方ーをとすからであろう。

先に理論があり、それに従って観察やデータ収集を行ない、整合性(あてはまりの度合)をチェックする。そして既存の事実と照らして無矛盾であることを示せるなら、その理論は正しい可能性(蓋然性)が上昇し、類似の論考が増えるに従って、皆が「どうやら事実であるらしい」と考え始めることになる。
このような一般化プロセスを我々は「演繹的アプローチ」と呼んでいるが、論文はこの形式をとらなければならないと考える人が多いのである。
研究者・学者の事実解明に対する演繹的アプローチに対し、もうひとつの一般化の方法は「帰納的アプローチ」と呼ばれる。高校までのカリキュラムで、「数学的帰納法」という証明の方法論を学んだ方々もおられようが、それと同様に、いくつかの小さな事実を前提として、それをもとに、より大きな理論に発展させるのが、帰納的アプローチという方法論である。
たとえ完成形の論文が演繹的アプローチで書かれていたとしても、実際の発見や新理論のきっかけは、帰納的アプローチによることが多い。

75頁
研究者・学者(玄人)と民間人(素人)とでは、一般化(記述)の手法は表面的に異なるにせよ、実は似たようなことをやっている。研究者の演繹的手法は、論文の形式として「文法的に正しいやり方と考えられているからそうしている」だけのことで、ほとんどの研究者・学者は、世の中の観察から興味をスタートさせている。その上で共通項に着目し、観察されたすべての事象を無矛盾にうまく説明する理論を家庭する。データを集め、どうやら正しいらしいと考えた時点で、あたかも先に理論を思いついたかのように書くだけのことである。

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「理論」は、「既に存在する理論」があるから構築できるとする考え方に注目したい。
「既に存在する理論に照らし、当該理論について矛盾なければ、その理論は学術的に有効である」と専門家は考えてしまう習性があるようだ。
また、学者、専門家は、「理論なるもの」、「理論と称するもの」を読者に提示することで、その職業的立ち位置を崇高かつアカデミックなものとしたいようだ。


ゆえに、大部分の理論は実態と乖離する?宿命を負う?ことになる?

コロナウイルス感染分析に関して、例外的に、「理論と実態の乖離が少ない素晴らしい分析」が以下に紹介されている。

―― 参考情報 ――――――――――

コロナでこんなまともな記事はじめて読んだ
http://www.nikaidou.com/archives/128658

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私は、小中高大とすべて理系。なので、(特定の前提条件における)理論ベースで数値解析した結果と、(設定された条件下での)実験結果の突き合わせを行い、当該理論がどの条件、どの範囲でなら適用可能かという視点で「理論」というものを位置づけるようにしている。

理論ベースの数値解析、実験結果、食い違うことは日常茶飯事であることは当然。

理論それだけで完璧、オールマイテイな理論など、そもそも存在するのだろうかという視点で「理論なるもの」、「理論と称するもの」を眺めている。



当然の事ながら、理論がどの範囲に有効か否かについて、いわゆる外的要因による影響に左右される。マルクス主義や政治思想の評価など、文系的命題にも、この考え方は当てはまるように思う。

専門家、研究者が、「理論的に矛盾がないのでこの理論は正しい」という考え方を捨てない限り、我々庶民は、実態を顧みず、前提条件等や外乱(ノイズ)を考慮しない、「理論なるもの」、「理論と称するもの」に振り回されるということである。


以上

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