チベット問題の黒幕について

本稿は、チベットがなぜ中共に軍事占領され、あのような扱いを受けるのか。どのような勢力がそうなることを仕組んだのか。歴史経緯的視点から分析を試みることを目的としている。



答えの一つとして、大東亜戦争中、チベットが中立国だったことにあるとの説が浮かぶ。

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チベットは日本の恩人って本当?
http://rainbowchildren.holy.jp/archives/8341

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中立国だったことが戦後災いしたことは確かである。


日本軍が暗躍していた時期があるとの情報もある。

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チベットをめぐる日本の諜報活動と秘密工作
file:///C:/Users/Administrator/Downloads/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%AB%9C%E5%A0%B1%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%A8%E7%A7%98%E5%AF%86%E5%B7%A5%E4%BD%9C2%20(2).pdf

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もっと、長期的視点に立ち、チベット情勢の推移を眺めたい。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BE%B5%E6%94%BB#%E5%BD%93%E6%99%82%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%8B%95%E5%90%91

20世紀前半のチベット情勢

チベットはユーラシア大陸の中央部に位置する険しいチベット高原に存在し、独自の文化圏を築いていた。しかし、清朝の時代の一時期に、清国軍の駐屯を受け入れて保護国となった。また19世紀にはイギリスの勢力下にあり、1904年にイギリス軍はラサに駐屯していた。辛亥革命後にチベットは自立し、第二次世界大戦においては中立政策を保持していた[17]。ただし第二次世界大戦におけるチベットは、中立政策を掲げながらもイギリス軍やアメリカ軍などの連合国軍へ、中華民国への兵站線を提供していた。

当時のチベットの指導者は第14代ダライ・ラマであった。第二次世界大戦が1945年に終結すると、インドと中華民国に代表団を派遣してチベットの主権を確立しようと試みたが、中国国民党内の強硬派の抵抗にあって失敗し、さらに主権確立、つまり完全独立への画策は同年に勃発した国共内戦で先送りにされた。[18]

戦争経過(第2段階)

中国共産党、「チベット侵攻」を発動
毛沢東率いる中国共産党は国共内戦に勝利し、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言した。その6週間後に、中国人民解放軍が、ガンデンポタンの勢力圏の東部境界付近に集結しているという報告があった。ついで中国政府は、ガンデンポタンの勢力圏への侵入に着手する。1950年1月1日に、中国国際放送(ラジオ北京)は「パンチェン・ラマ10世の要請により、中国人民解放軍はチベットを解放する用意がある」と放送した[19]。サムドン・リンポチェおよびダライ・ラマ14世はこれを「中華人民共和国側の一方的な『約束』である」、と主張している。さらに1月7日に中国人民解放軍は「チベットの同胞の解放を開始する」ことを宣言し、中国軍の侵攻は避けられないものとなった[20]。

当時の国際社会の動向
1949年の時点でチベットおよび西側の報道では、この侵攻を一般に侵略と呼んでいた[1]。例えば亡命チベット人のペマ・ギャルポは「チベットは歴史が始まってからずっと独立国家であった」と主張する[21]。一方、中華人民共和国内では、この事件を、「チベットの平和的な解放」と呼んでいる[22][23]。

この中華人民共和国によるチベット侵攻の動きに、アメリカ政府ではイギリスの代表団も出席して国務省にて会議が行われ、中華人民共和国による侵攻に対するチベット抵抗運動を促進して支援するかどうかについて討議され、「チベットに対する小規模な軍事支援が中国人民解放軍に損害を与え、従って侵略を阻止することができるだろう」と結論された。そしてアメリカはイギリスに、インドがチベットへの支援に参加するように、インドに対して説得することを提案した。

しかしアメリカは、朝鮮半島における状況が緊迫していたこともあり、自国の利権にあまり関係のない南アジアにおける紛争に深く関係することに積極的ではなかった。結果的にアメリカは8月にはチベットにインドを経由した極秘援助を伝え、チベット政府はこれを承諾した。[24]

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グレート・ゲーム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0

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中共チベット侵攻時の、アメリカ政府、イギリス政府の動きに注目したい。大東亜戦争であれほど徹底的に日本本土を攻撃したアメリカ政府が、「チベットに対する小規模な軍事支援が中国人民解放軍に損害を与え、従って侵略を阻止することができるだろう」との方針を選択したことは、信じがたい。拍子抜けする規模の対応である。

アメリカ政府、イギリス政府とも、誰かに気兼ねしてわざとに手抜きしたのであろう。



中共の立場で眺めると、朝鮮戦争でアメリカ軍が決定打を放てない状況を見透かして、チベット奪取に成功したと解することもできる。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BE%B5%E6%94%BB

チベット侵攻

チベット侵攻(チベットしんこう)とは、中国人民解放軍(中国共産党の軍隊)によるチベットへの侵攻をいう。侵攻は、

チベットの東北部・東部に対して(1948 - 1949)
中央チベットに対して(1950 - 1951)
の2段階に分類される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89

朝鮮戦争

年月日:1950年6月25日 - 1953年7月27日
(休戦中)

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朝鮮戦争が、共産主義国家を第二次大戦後の強国として認定、アメリカの国力を弱体化させる目的での手抜き戦争としてデザイン、編み出されたとの見方もある。ただ、中共にとっては、チベット奪取がメインだったとすれば、朝鮮半島は国際社会の関心を引き付けるための戦場の位置づけとなる。

つまり、中共は、英米のチベットに関する(意図的と思われる?)無関心を熟知、チベット奪取に成功させたのである。


見方を変えると、アメリカの国力を弱体化させたい勢力は、朝鮮戦争をプロレス化させる一方で、中共に対しチベット侵攻を唆し、中共からこっそりと報酬を得た?可能性がある。



なぜか。
イギリス政府が、大戦中のチベットの中立国としての振舞いが気に入らず、中共を利用し、チベットに報復したと考えられるのである。

イギリスならやりかねないことである。イギリスが黒幕となって、ロシアに革命輸出するに至ったそもそもの原因は、アメリカの南北戦争時代に帝政ロシアが北軍に加担したことであるとの説がある。

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ロシア革命が仕掛けられたそもそもの原因
http://gendaishi.jugem.jp/?eid=199

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それだけではない。イギリスから独立したインド政府が気に入らず、インドの後背地であるチベットにインドと対立する勢力(中共)に支配させたいとの思惑もある。



すなわち、20世紀、ロシア、チベットにおける悲劇は、イギリスが間接的に差配した疑いがあるのだ。

さらに、ヤルタ会談の密約により、ソ連が植民地化した新疆を中共が得たことで、チベット侵攻しやすくなったとの見方もできる。

―― 参考情報 ――――――――――

ヤルタ会談
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87#:~:text=%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87%EF%BC%88%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%A0%E3%82%93,%E5%9B%BD%E9%A6%96%E8%84%B3%E4%BC%9A%E8%AB%87%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

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すなわち、「ソ連と中国との間でヤルタ会談での密約があったとしている、ウイグル協会の主張」、ルーズベルトとソ連との密約の存在などを含めて参考とすると、会議の主要メンバーであるチャーチルは、戦後世界の支配の構図がどうなっているかを熟知、その前提でヤルタ会談参加各国に対し密約を唆した可能性が浮上する。(チベットの戦後処理のシナリオを含む)。


―― 参考情報 ――――――――――

東トルキスタンの歴史
http://uyghurjapan.org/jp/category_east_turkistan/history_et/

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かくして振り返ると、ヤルタ会談とは、ウイグル、チベット両方にとってみれば、罪深い密約が為された会談と考えるのである。

以上

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