この種の発言に私は、反発を覚えている。その人物は、こう言えば反論できないと思って発言している可能性もある。
では、その保守系団体、他団体主導の活動に協力してきたかというとそうではない。
自分たちの主張することについて、大同団結し協力すべきだと述べてきたに過ぎない。その団体が「保守、愛国」といったキーワードを使うと、イデオロギー(の一種)と扱われてしまうことは避けられない。
何が欠けているのか。
拙ブログは、読者層を保守層に設定はするものの、読まれた方の支持政党がどうであろうと、物事の道理としてどうなのかという視点から分析、最終的に、問題が問題として正確に認識されるべく、纏めるようにしている。
要望書、陳情書、パブリックコメント事案については、客観的視点、政治的に中立な視点で述べる様、心がけている。
実際に提出する、要望書、陳情書、パブリックコメントの文書に、保守だから、、、愛国だから、、、自民党支持者だから、、、すべきである、みたいな論理で書き綴ることはしない。
なぜか。
「保守、愛国」は、その言葉単独で、政治的に実現したい事項、主張する事項について「直接的かつ説得力ある根拠」になり得ないと考えるからである。
似たような発想の考え方がないかと思い、政治思想の本をいろいろ読んだ。
福田恒存の本も読んだ。
しかし、今一つはっきりしない。
そんな中、たまたま読んでいた一冊の本に、答えを見出した。
宇野重規は、「保守主義とは何か」という本の中で、福田恒存について、かく人物紹介している。
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160~161頁
福田は自分を「保守主義者」とは考えていない(この点、少しハイエクと似ている)福田は「私の保守主義観」の冒頭で次のようにいう。「私の生き方ないし考へ方の根本は保守的であるが。自分を保守主義者とは考へない」。
これはどういうことか。福田によれば、保守とはまず態度の問題であって、イデオロギーの問題ではない。そもそもイデオロギーとして先行したのは革新主義である。現状に強い不満をもつ人間が、一定の世界観に基づいて変革を主張する。このような革新主義に対し、反発を覚える自己を認識したものが保守派となる。すなわち、保守は必ず革新に遅れて登場するというのである。
そのような保守派はイデオロギーを必要としない。自らの生活感情に根ざして必要な改革を行えばいいのであり、むしろ「保守主義」なる大義名分をかざして自らを正当化しようとすれば「反動」となってしまう。英文学者である福田は、しばしばエリオットを参照して「文化」とは生き方であると論じたが、保守とは過去を尊重する一つの生き方であり、理屈を振りかざして相手を説得する必要はないと説いたのである。
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「自らの生活感情に根ざして必要な改革を行えばいいのであり、むしろ「保守主義」なる大義名分をかざして自らを正当化する必要がない」との指摘がある。
今までもやッとしていた部分が晴れた気分である。
以上
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