「旧皇族」が担うにふさわしい役割

本稿は、秋篠宮家に起きたいろいろな出来事を振り返り、皇族教育見直しの視点から、「旧皇族を中心とするご一族の方々」が担うにふさわしいと考える役割について述べさせていただく。


役割的には二つある。一つは幼児期の教育担当。もう一つは、ご学友である。


イギリスの王族、貴族の女子幼児教育において、上流階級出身の方が家庭教師みたいな立場で音楽、美術、裁縫、外国語、歴史、地理を教える伝統があったとされる。

―― 参考情報 ――――――――――

上流階級教育を担った家庭教師の存在
http://gendaishi.jugem.jp/?eid=1362

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立憲君主国イギリスの上流社会においてそうであるなら、日本において、旧皇族の方、あるいは皇籍離脱された方にふさわしい役割であるように思う。


ただし、中学生以上になると家庭教師では十分とは言えない。人との係わりを通じて社会を知ることが必要となる。そこでご学友の存在が重要になる。
ご学友が周りにいることで、間違った判断、対応を防ぐきっかけとなることが期待される。


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https://sokokuhanihon.seesaa.net/article/484439786.html

■安心のためにご学友を増やす必要はないのか

記者会見場での眞子様の尊大な振舞い、素性等調べもせず結婚相手を決めた経緯などから、安心できるご学友を幼少期から数人確保、配置する必要がある。
なお、ご学友についてはその家庭的事情などから、小学校~大学すべての期間、ご学友扱いとする必要はないように思う。期間別に分割して確保することが現実的。

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「昭和天皇の学ばれた教育勅語」(解説・編 所功)によると、昭和天皇の中高時代、五人のご学友がおられたそうである。


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当時の学習院長は明治天皇の信任篤い乃木希典希典大将である。その教育方針は、皇孫といえども良くない行状があれば遠慮なく矯正し、なるべく質素で勤勉な習慣をつけることにあった。そこで、たとえば通学の際は「雨の日も外套を着て(馬車でなく)歩いて通われるように」とか、また真冬でも「火鉢にあたるより運動場を駆け足されたら温かくなる」などと直接ご注意申しあげた。後年(昭和四十六年)、天皇もみずから「乃木院長から…ぜいたくはいけない、質実剛健というか質素にしなければならないことを教えられました」と語っておられる。

この乃木院長は殿下が学習院の初等科(六年間)を終えられたならば、当時の中学(五年間)・高校(三年間)に相当する中高一貫(七年間)特別教育の御学問所を新設する必要があると考え、早くより準備を進めていた。そのおかげで、乃木自身は大正元年(一九一二)九月、夫人と共に殉死をとげたが、彼の構想に基づいて、東郷平八郎原水を総裁(校長)とする東宮御学問所が同三年四月から発足したのである。
御学問所は、高輪の東宮御所の一角(現在のプリンスホテルあたり)に設けられ、ここで皇太子裕仁親王が満十三歳から満十九歳までの七年間、五名の御学友と共に特別教育を受けられた。

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今現在、悠仁親王のご学友がいるのかいないのか、どういう役割を担っているのかまで、私は知らない。ただ、悠仁親王殿下が周囲と接触機会が少ない環境で成長され、あるいはふさわしいご学友が見当たらないのであれば、安定的な皇位継承、男系男子宮家復活の一環として、旧皇族がご学友の役割を担うことが考えられる。別に同じ学年である必要はない。二学年上、二学年下くらいまでの範囲で五人くらいは必要と思う。

家庭教師については、費用的な面は宮内庁予算をやりくりすれば対応できることであろうし、ご学友についてはキリスト教系の高校、大学を選ばなければ、無理なく確保できそうな気がする。旧皇族に適任者なければ公募するという方法があるかもしれない。


以上

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