「学び直す」という発想

50歳を過ぎた頃、思うところがあり、地元大学主催の「社会人向け学び直し講座」を半年間受講、大変刺激を受けた。
研修内容は、アドビ社のイラストレーター、フォトショップ、CADソフトの操作関係。建設業関係の同年代の受講者、特に女性の受講者が多かった。
休憩時間になるとワイワイガヤガヤ話し込み、自分の歳をつい忘れてしまった。



こういう経験を含め、生涯勉強好きなタイプと自分では思っている。

最初のきっかけは、ニーチェ、ヒルティ、アランなどの哲学書を読み始めた高校1年生の頃に遡る。これらの本を、時間や生活上の気苦労などを忘れ読めることがどんなに幸せなことか、当時何度も思った。

大学時代は、渡部昇一ほどではないが、部活動の傍ら、大量の単位を取得、大学の開架図書室で読書に耽った。実験レポートは実験終了後に直行した図書館で作成。レポート作成後、部活動に参加、練習が終わると銭湯に直行。アルバイトする時間的余裕はまったくなかった。

サラリーマン時代は、昼休みになるとビジネス書発掘目的で紀伊国屋書店に通い、服装から店員さんに何度も間違えられた。会社の宴会は二次会まで。三次会には行かず、三次会とタクシー代の予算で仕事関係の本、雑誌を購入した。(月5000~1万円前後)

結婚に際しては、結婚相手に、〇〇歳で早期隠居することを宣言、、、。

会社においては、いわゆる後始末業務、業際業務、先輩たちが嫌がる仕事を担当することが多かった。が、そのことを不満に思ったことはない。振り返ってみて、多様な職種、職場を経験できたことは有難かった。


いろいろ書けるのは、後始末、業際、嫌な仕事ばかりした経験のほかに、素直に学びたいという気持ちからくるものと思っている。

退職を機に、自由人となれるので、在職中の上司に(パワハラを根拠に)復讐したいという気持ちもない。そんなことで時間やエネルギーを費やすくらいなら、もっと有意義なことに打ち込む方を選ぶ。

学ぶことに関しては、本居宣長の「うい山ぶみ」、小西甚一、鈴木棠三の本から刺激を受けた。政治と文学、分野は違っても、いつか読む日が来ると考え、知的好奇心の赴くまま、古書店の在庫がなくなる前に数冊購入した。


保守系言論人たちは、市井の保守層を初心者扱いすることを習慣化しつつある。法律や行政文書をきちんと読みつつ陳情書を作成、パブリックコメントに参加していれば、専門家でなくてもものの見方に大きなズレは生じない。地道にコツコツやれば、政治情勢分析、見立てにおいて間違うことは少ない。

大部分の保守系言論人たちは、本を売ることに熱心である。後期高齢者になってもその傾向に変わりないことに呆れている。政治目標実現するよりも自著を売ることがそんなに大事なことなのか、皮肉を言いたい気分である。


そして、彼らは、あれも必読書、これも必読書と声高に叫ぶ。本当にそうなのか、、、

私は賛同しない。たとえば、万葉集や古典は、日本人の思考やものの見方、考え方のルーツである。理系の私でも、これら古典にきちんとアクセスしないと政治的本質が見えてこない分野(例:皇室、神道)がある。目先、必読書とされる本だけ読んでいても明らかに不十分、、、なのである。

中でも、平泉澄、平川祐弘、加藤尚武の本は奥が深い気がしている。「気がしている」と書いたのは全部読み、理解し終えた状態ではないからだ。


「国家神道」は戦時下の反日宣伝 東京大学名誉教授・平川祐弘
https://www.sankei.com/article/20220527-7PC3GVUHBRJSLL3IPLDL3F7MF4/

その人の生涯を振り返った場合、良書はそんなに多くはならない。あれもこれも必読書とはならない。書店は駄本で溢れていることは確かである。底の浅い言論活動に付き合っている時間的余裕はない。もちろん、1時間ものの政治動画、酒を飲みつつ政治を語るYoutuberの動画を眺める必要性をまったく感じない。

残念ながら、ネット界は視聴者に時間を浪費させる傾向が強い。

拙ブログは一つの原稿について、1、2分で趣旨ご理解いただけることを心がけている。読者の皆様が私以上に多忙であることは知っているつもりである。

最近の読書方針となるが、新刊書には政治的にタイムリーな場合を除き手を出さないようにしている。代わりに、埋もれていそうな既刊本を探し当てることを心がけている。

特に、アメリカ史の翻訳書に注目している。

政治ブログの世界においては、歴史的経緯をきちんと押さえ、最低限の法律や行政文書を読み、関連分野について自分で発掘、調べ、分析したうえで判断した結果にそう間違いはない気がしている。

自分が常に正しいと言っているのではない。一時的な感情や流行に左右されず、地道な調査活動を心がけるだけのことである。

思いつくままに述べさせていただいたが、「学び直し」とは、素直に学びたい人の人生において補給される「知的養分みたいな存在」ではないかと振り返って思う次第である。


以上

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