中国ネット民は、なぜ安倍氏暗殺を喜ぶのか 環球時報が披露した「エクストリーム擁護」
https://www.j-cast.com/2022/07/13441694.html?p=all
言論の自由のない社会で、中共政府の本音に近いことを民衆が代弁していい気になっている可能性はある。ただ、もともと排外主義的思想の傾向が強いお国柄である。
戦前、ドイツや英米は、その排外主義の矛先を日本に向けることに成功、日本は泥沼に引きずりこまれた。
さて、「大隈重信、中国人を大いに論ず」にて、中国の国柄のことが述べられている。
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ややもすれば、忘恩と背信の行為の多いことは、まったく顰蹙の極みであるが、このようなことは、ほとんどその遺伝性によるものである。もはや尋常で一様な舌頭の教訓(言葉のおしえ)では、容易に功を奏しないほど頑固な痼疾(こしつ、持病)となってしまっている。
11頁
そこで知ることになるのである。長い期間続いてきた遺伝的疾患はゆらぐことなく、容易に抜くことのできないものであることを。
28頁
その忘恩の態度はまったく唾棄すべきものではないか。それが、このたびの交渉においても、遺憾なく現れたのである。
34頁
それなにの何ごとか、支那の革命は、いつも同じことだけを繰りかえしている。聖人が昔からこのことを戒めて、教えを垂れてきたのであるが、支那は古来、文教の国であると誇張して自称するばかりであった。支那は、小児のときから、政治の金の言葉に親しんでいるにもかかわらず、そのとおり実現できないまま、今日に至るのは、なぜなのか。
65頁
そのため支那では、法律といえば、ただ刑法のみをあらわし、民法による民事裁判のようなものは成立してこなかった。これが徹頭徹尾(はじめから終わりまで)、支那の発展進歩を妨げた、癒すことのできない(不治の)病根であったのだ。
104頁
ところが、どうだろう。支那には、数千年の歴史がまるで一日のようにしてあるだけで、まったくといって進化の跡がない。いつものように、形式を尊び、詐術を愛し、それでいて、窮境(苦しい立場)におちいったときには、頼るべきではない相手を便りにして、目の前の苦痛だけが去れば、それでいいのだといったように、将来の大きな患いにまで思慮の及ぶことがない。
151頁
要するに、支那の国民性は弱いのである。日本のように「強」を尚ばず、ただ「文」のみを尚んだ。文質彬々(ぶんしつひんぴん、外面と内面の調和)というのも文字の上に残っているだけで、実際に彼らは、「文」に偏って「質」を尚ぶことはない。
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時代が変わろうと、政権が変わろうと、中国(人)は変わることはないのである。そのことを、大隈重信は首相時代に実体験、かような文書として後世に残したのである。
第二次安倍政権は、この本を読んで実践したと思われるほど、中共との外交関係は疎遠だった。プーチンとの外交関係強化は、中共の外交上の立ち位置を脆弱化させる効果は少なからずあった。
その昔、マスコミは愛国派議員の靖国参拝等に関し、中国の反発が必至と報道したケースが続出した。第二次安倍政権時代以降、その種の報道は徐々に減ってきた。
中国の言い分を聞けば聞くほど、(中国が)図に乗ることが知れ渡ったため、「中国の意向」など、気にかける日本人が激減したためである。
マスコミ報道を真に受ける、新聞購読者、ニュース報道視聴者が減少したこともある。
一方で、野党議員やマスコミの論調は、対中共との外交交渉において、徹底した対話、話し合いによる解決を求める趣旨の提言が多い。
しかし、上記大隈重信の本をきちんと読んでいれば、中国は、当時も今も変わらず、外交交渉して得られることがまったくないことくらいすぐにわかる。
第二次安倍政権時代、中共との外交関係が一時的に希薄となったのは偶然ではない。安倍首相が北京から日帰り外交したことも偶然ではない。日本側どんなに真面目に話し合いを続けようと、無駄なのである。
時代が変わろうと、中国人の本質は変わることはない。支那事変時代前後の停戦協定が相次いで破られたのは偶然ではない。
約束事を約束として認識するお国柄ではないのである。
約束を守ろうが守るまいが、どんな卑怯なやり方だろうと、結果として相手を倒せばいい社会(お国柄)なのである。
よって、マスコミの中国政府報道を真に受ける必要はない。中国人がどのような人たちかもしらず、中共政府報道を言葉どおりそのまま報道する(ハニートラップされた)マスコミ記者たちは「(中国人を知らなさすぎるという点で)お人好し≒馬鹿」なのである。
以上