歴史経緯的に、戦後国葬となった人は、吉田茂一人だそうだ。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%91%AC
国葬(こくそう)とは、国家に功労のあった人(君主、皇族、王族、政治家、軍人、学者、芸術家、宗教家、環境保護活動家など)の死に際し、国家の儀式として、国費をもって行われる葬儀のことである。
日本
古来、天皇の崩御などの場合、大喪が発せられる慣習があったが、特に国葬の名は明治以降正式に使用された[1]。明治以降、国葬をすべき必要が生じた場合に応じて「特ニ国葬ヲ行フ」とする勅令が個別に発せられていた。
国家に功績ある臣下が死去した場合にも天皇の特旨により国葬が行われるほか、皇族においても特に国家に功労があった者が薨去した場合には、通常の皇族の葬儀ではなく特別に臣下同様の国葬が行われた。また李太王熈(高宗)[2]、李王坧(純宗)[3] といった大韓帝国皇帝経験者はいずれも特旨によって国葬となっている。
1926年(大正15年)10月21日に国葬令(大正15年勅令第324号)が公布され、国葬の規定は明文化された。同勅令の中で、天皇・太皇太后・皇太后・皇后の葬儀は、特に「大喪儀」といい、国葬とされた(第1条)。また、7歳以上で薨去した皇太子、皇太孫、皇太子妃、皇太孫妃及び摂政たる皇族の葬儀は全て国葬とされた(第2条)。その他、「国家に偉功ある者」に対し、天皇の特旨により国葬を賜うことができるとされた(第3条)。
皇族・王公族以外の被国葬者は、「旧・薩長藩主」「太政官制における大臣経験者」「首相経験者」「元帥」のいずれかに該当する。このうち首相経験者はいずれも元老であり、複数の組閣経験を持つほか、最高位の勲章である大勲位菊花章頸飾を没日以前に受章している。軍人のうち東郷平八郎・山本五十六は皇族・王公族・首相経験のいずれにも該当していない。
第二次世界大戦後、国葬令が失効したことにより、それによって規定された国葬はなくなった。また、新しい皇室典範の葬儀に関する規定は、第25条の「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」という記述のみとなった。また、第125代天皇明仁から今上天皇への皇位継承に際して制定された皇室典範特例法では、上皇の崩御に際しても大喪の礼が行われることが規定されている。「大喪の礼」は国家儀式として行われ、その費用が国庫から支出される国葬として扱われている。一方で伝統的な宗教儀礼を含む儀式は、「大喪儀」として皇室が主宰する儀式として行われている。皇族については、その葬儀の呼称にかかわらず、皇室の主宰する儀式となっており、いわゆる国葬としては扱われていない。これは第二次世界大戦前ならば大喪が行われる皇太后の身位にあった香淳皇后の2000年の葬儀でも同様である。ただし、1951年(昭和26年)に貞明皇后が崩御した際には、国葬と明確にしないまま「事実上の国葬」(準国葬)として一連の葬儀が行われた[4][5][6]。
第二次世界大戦後、天皇・皇后以外で国葬が行われた初めての例は、1967年(昭和42年)10月20日に死去した元内閣総理大臣の吉田茂である。閣議決定による「国葬儀」形式での国葬とし[7]、かつ政教分離に基づき宗教色を排して同年10月31日に日本武道館で行われ、皇太子・同妃が献花した他、外国使臣ら5700人が参列し、一般会葬者3万5000人が献花に訪れた。葬儀委員長は佐藤栄作首相が務めた。
2022年(令和4年)7月8日に銃撃を受け死亡した元内閣総理大臣の安倍晋三も、内閣府設置法を法的根拠として[8]、閣議決定により同年9月27日に日本武道館で国葬が開催されることとなった[9]。葬儀委員長は岸田文雄首相が務める。
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上記にて、国葬された方で名前が挙がっている人は4人。
東郷平八郎、山本五十六、吉田茂、安倍晋三。
軍人二人。政治家二人である。クリスチャンは吉田茂。山本五十六は親族にクリスチャンがいるためクリスチャンかもしれない。
この4人のうち、誰でもわかる功績があった人は東郷平八郎。
山本五十六は、する必要がない真珠湾攻撃、戦術的に意味のないミッドウェー海戦を強行、日本を敗戦に導いたきっかけをつくった。真珠湾攻撃しなければ、海軍はジリ貧状態とはならず特攻出撃は避けられた。タイミング的に戦時中の戦死だったこともあり、国威発揚目的での国葬だったように思う。
吉田茂は、戦後の政治体制の骨格を創った政治家として知られている。外交官時代の素行は褒められたものとは言えないとする情報がある。私は、いわゆる戦後レジーム体制の日本側の受入れ責任者として評価している。
安倍晋三は、吉田茂との比較となるが、戦後レジーム体制脱却に執念を燃やした。第一次、第二次政権で、取り組んだ領域の違いが際立っている。
第一次政権は、内政面、教育面を中心に、戦後レジーム脱却を公言、目立ち過ぎて、敗戦利得者が政権打倒目的で結集、民主党政権樹立の事態を招いた。
第二次政権は、アベノミクス、外交、安全保障面に注力、雇用と景気を安定させ、歴史認識問題に決着をつけ、クアッド創設等、外交力により日本の国際的地位向上に邁進した。
各国が弔意を示したのは、有名人である他に、主義主張や立場を越えて評価される政治家だったからである。
ただ、私は、安倍元首相の功績が何であったかと聞かれ、個別項目を列挙して説明するしかない。国民各層の間で情報共有化される状態にないことを非常に残念に思っている。
再掲 報道されない安倍総理の功績
https://ameblo.jp/woods72060/entry-12717469992.html
その中で、憲法改正は実現しなかったが、第二次安倍政権期間中に、改憲に必要な議席を確保しつつ、徐々に徐々に改憲世論を醸成したことは(改憲に賛成する意見が過半数となったことを指す)、どうみても安倍晋三の功績である。
そう考えると、政治家安倍晋三の功績は、
戦後レジームからの脱却を手始めに、アベノミクスにより景気と雇用を安定させつつ、中共の膨張を抑えることを類希な外交力によって推進、アジア・太平洋地域の安全保障の維持向上に貢献しつつ、その総仕上げとして憲法改正の道筋を示し世論を改憲に導いた、有能な政治家だった
と、100年後に刊行される歴史書に記されることを期待するのである。
以上