高貴なる者の義務

二つの視点から述べさせていただく。


・真正保守派は今のままでいいのか?

10年くらい前までは、自らを真正保守と名乗り、個人ブロガーを威圧する言論活動が存在。拙ブログも巻き込まれちょっとした有名人(本を何冊か刊行したと得意になっている有名な人)に小馬鹿にされたことがあった。

しかし、この10年間、その人物の政治活動を観察してみて、批判と不満を述べるだけで提言なし、陳情なし、パブリックコメント提出実績がまるでないことがわかった。保守の有名人にしては、保守ネット界で引用されるケースがまるでなかった。

その人が必死に説いてきた、愛国保守的な視点での政治活動は、実態があるのだろうか。
中身のない政治活動について、実相のない言論活動について、(完全否定はしないが)称賛するつもりはない。

ツイッター等で吠える言論人を眺める度に、一言言いたくなってしまう。そもそも準備と覚悟ができているのだろうかと!

話は変わるが、平泉澄の「少年日本史」(文庫本は、物語日本史)には、皇国史観の視点から歴史上語り継がれるべき人物のことが述べられている。西村眞悟が日本のこころという政党タウンミーテイングの場で、この本のエッセンスが紹介された。西村眞悟が語る話だから黙って聞いた。
日本のこころを語るなら、三浦綾子の小説「塩狩峠」の主人公の如く、身を捨てて実践する人がふさわしい。実践しない人の話は、そもそも聞く価値がない。ビジネス保守野郎、胡散くさいチョロマカシ野郎の話など聞く気がしない。

高貴なる者の責務(ノブレス・オブリュージュ)を理解し、実践する人にのみ、日本のこころを語る資格があるように思う。



・イギリス貴族の場合

「英国貴族の邸宅」(田中亨三)にて、高貴なるものの責務として、歴史上二人のイギリス人が身を捨てて実践したことについての記述がある。二つともイギリスでは広く知られた史実とされる。

▽▽▽ 引用開始 ▽▽▽

英国貴族の邸宅
田中亨三

一五八六年フランドル地方の戦場で「私よりお前のほうが渇いている」と言って、自分と同じく瀕死の重症のに喘ぐかたわらの一兵士に、水筒の水を譲ったエリザベス朝の英雄サー・フィリップ・シドニーの最期は、今に語り継がれています。また現代訳では、リンスター公爵の嫡男デズマンド・フィッツジェラルド少佐の英雄物語が知られています。

一九一六年三月北部フランス戦線。塹壕で少佐が新型の手榴弾の訓練を指揮していたとき、不器用な従軍司祭が安全装置を解除した弾を取り落とし、弾は兵士たちの足下に転がりました。間髪を入れず身を投じ弾の上に覆い被さった少佐の体は、次の瞬間に吹き飛びましたが、残り全員は無事でした。カントリー・ハウス巡りをしていると、多くの家が二つの大戦で跡取りを失い、弟たちや従兄弟たちがおもいがけず、あるいはこころならずも、跡を継いでいることに気づきます。

ノブレス・オブリュージュは戦争の時にだけ発揮されるわけではありません。彼らはさまざまな慈善・福祉活動にも、その先頭に立って多くの時間を割き、努力を払っています。

△△△ 引用終了 △△△

日英は、互いに地球の反対側にある遠い島国だが、武士道と騎士道、相通じる精神が両国国民に継承されている。

偶然かもしれないが、三島由紀夫自決後、三島の霊に捧げる目的で?書かれた、名著「高貴なる敗北」の著者アイヴァン・モリスもイギリス人。

アイヴァン・モリス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%B9

日英同盟は(歴史の)必然とつくづく思う次第である。


以上

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