先頭に立とうとした言論人 三島由紀夫の本心

在命中の三島由紀夫と比較すると、昨今の言論人たちは政治的に非力である。

「陸軍中野学校の教え」(福山隆)は自決に至った三島由紀夫についてかく分析している。


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山本(山本舜勝、戦時中は陸軍中野学校の研究員兼教官、戦後は陸軍自衛隊調査学校の教育課長、副校長)は退官前、三島由紀夫が結成した「楯の会」に対して諜報・工作の指導を行っていた。一九六八年一〇年二一の国際反戦デーの新宿騒乱では、山本の指導のもと、調査学校の学生(現職自衛官)と楯の会のメンバー数十人がデモ対の中に潜入し、組織のリーダーを特定するなどの諜報活動を行ったという。まさに実戦訓練だ。
三島由紀夫の「クーデター計画」は、翌年の国際反戦デーに実行される予定だった。山本の著書『自衛隊「影の舞台」三島由紀夫を殺した真実の告白』(講談社)には、クーデター計画の概要が記されている。


それによれば、翌年一〇月二一日の国際反戦デーに「新宿でデモ隊が騒乱状態を興し、治安出動が必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ対を排除し、私(注:山本)の同志が率いる陸上自衛隊東部方面隊の特別班も呼応する。ここでついに、自衛隊主力が出動し、戒厳令状況下で首都の治安を回復する。(中略)クーデターを成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる」というものだった。

しかし、現実には、国際反戦デーが警察力で収拾され不発に終わった。このような事態の展開と、三島が率いる「楯の会」に自衛隊が呼応するとの約束を陸上自衛隊の将官たちが裏切ったために、三島はクーデターを断念したと言われる。三島は、一九七〇年一一月二五日、クーデター未遂で、振り上げた刀のやり場に困り、自らの人生の終幕に自衛隊の東部方面総監部を選び「捨て石としての死」を遂げたのだーという説はわかりやすい。

三島由紀夫は日本の精神文化を非常に大事にしており、「アメリカとソ連に、日本の精神文化、伝統、歴史などを汚されてはならない」と、自らの命を賭して、国民世論調査に訴えたかったのではないかー私は考えている。

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言論人たちに申し上げたいことがある。
あれも国難これも国難と言う前に、自ら真正保守と名乗る前に、世情について批評する前に、先頭に立つ気概を見せるべきと思う。

今のままでは、自著等の営業活動をしているようにしか見えない。

三島の自決から五十二年経過した。が、三島に続く、先頭に立つ言論人は依然見当たらない。櫻井よしこがダメだと言っているのではない。
先頭に立とうとする言論人が少なすぎると言いたい。
三島由紀夫のように先頭に立とうとしないから、国益的に重要ななことがほとんど実現しないと考えるのである。

なお、当時、三島を裏切った人たちについては、過去原稿を参照いただきたい。
中曽根は三島によって保守本流とみられるポジションを得たが、中曽根はキッシンジャーの子分となることで日本保守政界のフィクサーとなる立場を選んだ可能性がある。


三島由紀夫を裏切った人たち  ホンモノとニセモノの違い
https://sokokuhanihon.seesaa.net/article/464914215.html

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