特定国嫌いの外交官の問題

「歴史の教訓」(兼原信克)によると、仏印進駐は英米蘭仏の敵意の形成を招いたとしている。が、当時の日本の軍部はそのような認識はなく、兼原は、国際感覚、戦略観のなさを批判している。


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日本は四〇年九月、北部仏印(ベトナム)に進駐する。スターリンはヒトラーの背中に隠れて大国がいない東欧を併呑したが、日本が入っていったのは、アジアにおける欧米植民地帝国の本丸であった。アジアの植民地帝国であった英米蘭仏の敵意は一気に日本に向く。

中略

欧州でのヒトラーの猛攻を見ながら、国民に浸透した孤立主義、平和主義に悩まされていた米国政府は、最初から日本との戦争を望んでいたわけではない。実際、米国には戦時動員もかかっていなかった。だから経済制裁で日本を屈服させようと思ったのである。
南部仏印進駐が、米国をはじめとする連合国の逆鱗に触れると考えた人は当時、日本の軍部にはほとんどいなかった。瀬島龍三氏も戦後、そのように記している。だから日本は、突然の対日制裁(日本では「ABCD包囲網」と呼ばれた)の出現に驚き、「自業自得」の包囲網に対して「自存自衛」を声高に唱え始めたのである。

この国際感覚の欠如、戦略観のなさは、驚くべきことである

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一方、当時の日本安全保障外交上、親独に傾斜していたが、ヒトラーに振り回された結果に終わったとしている。

兼原の分析を一読したい。

▽▽▽ 引用開始 ▽▽▽

ヒトラーは、松岡の締結した日ソ中立条約から僅か二ヶ月でソ連に切りかかったことになる。ドイツ軍全軍を掌握し、力の信奉者であったヒトラーは、極東の一外相にすぎない松岡の面子など微塵も考えていなかったであろう。その点ではスターリンも同じだ。もともと現実的な利益の調整も共有もない松岡の構想は、軍事的な現実の前に一瞬にして吹き飛んでしまった。

裏切られた松岡外相は、節操なく北進論(ドイツと連携したソ連侵攻)を進言するが、優柔不断の近衛首相も流石に内閣総辞職、新内閣組閣をもって松岡外相を放逐し、外務省内では主流の英米派が力を盛り返すことになった。
この頃の日本は、いいようにヒトラーに振り回されている。ノモンハン事件の最中の独ソ不可侵条約、日ソ中立条約締結直後の独ソ開戦と、何度裏切られてもヒトラーについて行く日本の姿は、痛ましいというより惨めである。ドイツとの同盟は、何ら軍事的協力も戦略敵提携もない空証文でしかなかった。日独連携を切り捨てれば日本には、スペインやトルコのゆな中立や、中立を対価として対米交渉で妥協を探るなど、多くの外交的選択肢があったはずである。


しかし最後まで、多くの陸軍人がソ連に対する抑えとしてドイツに期待した。陸軍は甘い見通しでヒトラーを信じ、愚直に日独連携の信義に固執した。ドイツがソ連と戦端を開き、東西両国境の二正面で戦うようになれば、戦局がドイツに不利になり得ることは子どもでも分かる話である。中立の米国は徐々に英国に肩入れしていた。ドイツの体力がどこまで続くか。外交的、戦略的には、それを見極めるのが先決であったはずであるが、当時の陸軍にはその程度の常識すらなかった。尽くす価値のない相手に愚かなまでに忠義を尽くす、柔軟性のない戦時外交は命とりである。

△△△ 引用終了 △△△

なぜこんな結末となるのか。反米親独の外交官がヒトラーに入れ込み安全保障外交を主導したからである。


アメリカ嫌いで読みを間違った外相
http://gendaishi.jugem.jp/?eid=1432

親独反米だった政治家 松岡洋右
http://gendaishi.jugem.jp/?eid=1431


特定国贔屓、特定国嫌いの外交姿勢も国際感覚の欠如に該当するとみなくてはならない。

岸田政権には、親中派の閣僚が多いと言われるが、親中派議員は、戦前の親独派外交官と同様、特定国贔屓、特定国嫌いであるため、極めて利用しやすい政治家という評価になる。

中韓外交に熱心と言われる、林外務大臣が岸田政権にとってアキレス腱的存在なのは言うまでもない。

教訓として、政治家として外交官として特定国嫌いであることを諸外国に知られることは、外交上致命的な結果をもたらすことは広く知られるべきことと思う。

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