ジャーナリストの限界

ジャーナリストなので物書きのプロであると誤解、錯覚されやすいが、スキル的には??な方が多い。

朝日の論説委員だった轡田隆史を例に挙げたい。この人が文章作法、ビジネススキルの本を出している。二冊読んだがそれなりの分量の文書が書ける人なら常識程度のレベルだった。古書価格では1円本が続出。他の書評を読むまでもなく、論説委員だった方のビジネススキルがどの程度がわかる。

二人目は、産経の古森義久。ワシントン支局勤務が長い。その割に、著作では、情報源についての記述がほとんどなく、主観で書き連ねている程度。主観中心でまとめているので深みがないのである。図書館で借りて二、三冊は読んではみたが、最終的に読む価値なしと判断。古森は、他の産経記者と同様、前回大統領選挙でバイデン支持での視点からの記事だらけで、多くの産経読者層の失笑?を買った。最近になって、産経はバイデン批判記事を増やしたが時すでに遅しである。いつも思うことだが、産経記者たちは、アメリカ政府・議会文書を読まず、分析せず、手っ取り早く情報が手に入る新聞・テレビ報道しか読んでいないのではないか。

三人目はジャーナリストとしては知名度、人気、実力面で大御所レベルの立花隆。
「知の旅は終わらない」から引用させていただく。

▽▽▽ 引用開始 ▽▽▽

一言でいえば、現代日本は、大日本帝国の死の上に築かれた国家です。大日本帝国と現代訳日本の間は、とっくの昔に切れているようで、じつはまだ無数の糸でつながっています。大日本帝国の相当部分が現代日本の肉体の中に養分として再吸収されて、再び構成成分となっているし、分解もせずにそのまま残っていたりもします。あるいはよみがえって今なお生きている部分すらあります。歴史はそう簡単に切れないのです。

大日本帝国は、なぜどのように死んだのか。世界指折りだった大帝国がなぜあそこで消滅してしまったのか。その消滅を決定づけた時間帯はどこにあったのか。そこがわからないと、日本の未来もまたみえてきません。

△△△ 引用終了 △△△

一瞬名文と錯覚するほどの文章である。着想は悪くない。続く章にて、「東大はは歴史の大転換の中心舞台」だとしている。その章の書きぶりも、名物講壇師レベルの素晴らしい名文、、、。東大を舞台とする政治思想史として片づけるなら書きぶりとして納得する。
しかし、安全保障外交史の視点でみると、この種の問題提起について答えは既に出ている。
「歴史の教訓」において、兼原信克は、満州事変、仏印進駐、日独伊防共協定、日ソ不可侵条約関連の頁にて、大日本帝国崩壊がなぜ最終的に負け戦を(ババを引く)に至ったかについて、政府答弁書レベルの精度・精緻さで安全保障外交上の歴史的評価の位置づけで記述している。他の歴史書と比較し、曇りがない。

時に、ジャーナリストは得意な分野は詳細に記述、不得意な分野は誤魔化して書く傾向がある。安倍政権時代の官邸中枢にて安全保障外交を支えた有能な官僚とジャーナリストの実力差がわかる例である。

例として三人のジャーナリストをあげたが、総じて三人とも論理的であるように見えて論理的でない。そして、いろんな情報・文献に接している割に情報源について分析的でない。分析未整理状態で書きなぐっているような印象がある。

ジャーナリストだから、政界に詳しく、論理的かつ優れた分析力を有する、提言力を有すると考えがちだが、実態は違う。

大御所レベルの立花隆にしても、問題提起の次元だったことは衝撃的である。「知の旅は終わらない」で立花は3万冊読破したと豪語している。1万冊程度で止めて、分析、提言レベルに注力したら、、、
名著【「知」のソフトウェア】を書きあげた頃の立花隆は、伸びしろがありそうな人物だった。多くのジャーナリストたちは、政権批判が自分たちの社会的使命であると主張、批判と懐疑の前提で記事を書いているが、そこに彼らの言論活動上の限界を見るのである。

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