言論人の中に、他人を説得するか煽動目的で「国益」という言葉を好んで使っている方がおられるような気がする。
とりあえず、「国益」を語るには三つの必要条件が存在するように思う。
・その1 正しい愛国心を持つことを含めて、ものの道理を弁えること
愛国心について、森口朗『誰が「道徳」を殺すのか』の定義がある。
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真の愛国心とは、自国の価値をいっそう高めようとする心がけであり、その努力である。自国の存在に無関心であり、その価値の向上に努めず、ましてその価値を無視しようとすることは、自国を憎むことともなろう。われわれは正しい愛国心をもたなければならない。
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・その2 国益に関して、局面局面ごとに定義しつつ、情勢分析し、分析結果を文章化できるスキルがあるのか
Suica割さんのG7サミットの国益的視点からの分析が非常に参考となるので一読したい。
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https://jisedainonihon.exblog.jp/33279134/
Commented by suica割 at 2023-06-03 13:27 x
今回のサミットの成果の一部をあげると、ウクライナ支援を通じて、国際秩序維持の合意を改めてしたこと。
武力による国境の変更に関して、明確なノーを改めて世界に示したこと。
日本がそれに賛同することは、違法な武力行使をされるハードルを上げたこと(されたら、各国の支援があることが確定した)になり、日本の国益に明確にプラスになっている。
全く成果はないというのは嫌いな政治家に対するものとしても、言い過ぎである。
中身について、冷静な分析ができているのか?
という意味でも、批判者の格を下げているだけに感じる。
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Suica割さんの分析と上述の「真の愛国心とは、自国の価値をいっそう高めようとする心がけであり、その努力である」を組み合わせると、G7を舞台とした外交に関しては岸田首相は愛国心ある政治家との評価となる。
これは、G7での外交対応を全否定するは、愛国者としての心がけと努力が足りないことになる。
・その3 国や国家指導者に対する態度や評価が、客観的であるか
森口朗『誰が「道徳」を殺すのか』から、第五章の最終節「国への態度こそがモラル」を参照したい。
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国への態度こそモラル
確かに、道徳教育は「特別の教科 道徳」だけで行うものではありません。しかし、道徳教育の中核を担うのが「特別の教科 道徳」だともされています。すると、天皇や皇室、国旗国歌という国の根幹に関わる問題について、どういう態度で接するかは「モラル」の基本ではないのか、という問題が出てきます。
「特別の教科 道徳」の内容として。「C 主として集団や社会との関わりに関すること」のところで、「郷土の伝統と文化を大切にし、社会に尽くした先人や高齢者に尊敬の念を深め、地域社会の一員としての自覚をもって郷土を愛し、進んで強度の発展に努めること」という項目があります。
一般国民は「高齢者」というだけで「尊敬しろ」と道徳の授業で教え、天皇や皇室に対して無礼な態度を取ることは不道徳だと教えない。本当に道徳教育が、これで良いのか。しっかりと議論をする必要があるのではないでしょうか。
中略
そして、だからこそ「高齢者」というだけでも最低限のリスペクトを払うのがモラルになるというのも理解できます。それを教えておかければ、子どもたちが平気で高齢者をバカにする殺伐とした世の中になりかねないからです。
これに対し、私たちは「尊敬せよ」と教えられなくても、メディアから流れて来る、無私のお姿を眺めるだけで皇室に対する敬愛の念が自然と湧き出てきます。ですが、それに甘えて、皇室問題を道徳に取り入れなくてよいのでしょうか。国家の象徴である天皇や、そのご家族である皇室の方々への敬愛の念を、それが内心の自由を侵すというのであれば、せめて正しい態度を教科化された道徳でこそ教えていくべきではないでしょうか。
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これら三つの条件が、分析作業および分析結果に関連した、スキルとして、態度として最低限確保できた人が、「国益」を語るにふさわしいという結論に達する。
岸田首相を批判する保守系言論人はたくさんいる。私も岸田首相は政治家として好きなタイプではない。それでも人格否定、政策等の全否定は避けるようにしている。
国家指導者を問答無用で全否定するような批評態度は、批評の作法として最低レベルに達しているのか。これは問題提起である。政治的に保守の立ち位置なら、年上の(一応保守政権の)政治家に対する言動において、言論マナーとして配慮すべきこともある。
ちなみに、拙ブログは、「国益」という言葉をあまり使わないようにしている。「国益」の概念が相対的であるケースが予見されること、(敢えて「国益」と言わず)ものの道理の次元で述べることで言論活動的に対応可能と考えるからである。