頼みもしないのに仲介したがる国々

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻に関連して、ウクライナのゼレンスキー大統領が頼みもしないのに、プーチン陣営に属する国中国は当然として、ブラジル、トルコまでもが和平を仲介するポジションを選択した。

不可解なことであるが、歴史的経緯が参考としたい。
この地域における紛争処理に関する和平の仲介がビスマルク外交の核心だったとの指摘がある。ビスマルク外交の概要に関する歴史書から引用させていただく。

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世界史リブレット65
ビスマルク ドイツ帝国の建国者
大内 宏一

ビスマルクがドイツの安全保障を確保するための基本的抗争を記した文書としてよく知られているのが、ロシア・トルコ(露土)戦争が始まってまもない一八七七年六月に静養中のキッシンゲン温泉で子息のヘルベルトに書き取らせた「キッシンゲン口述書」である。このなかで彼が述べている基本構想は、ドイツ自身は局外者の立場に立ちつつ、ドイツ以外の諸大国が黒海・バルカンから北アフリカにかけた地域で対抗しあう状況を維持していくというものだった。

ビスマルクはこのことを、「フランスを除くすべての列強が、わが国を必要としていて、しかも列強相互間の関係のゆえにわが国に敵対する同盟を形成することができるだけ妨げられている、そのような一般的政治状況」と表現している。

そのような基本構想を、いわば実地に移す機会がその一年後に訪れた。露土戦争に勝利をおさめたロシアはオスマン帝国との間にサン・ステファノ講和条約を結んだが、この講和条約はとくにロシアの影響下にあるブルガリアの領土を大きく拡大するものであったので、イギリスとロシアの間で戦争の危機が迫った。それを収拾するための国際会議がロシアの要望によりベルリンで一八七八年六月から七月にかけて開かれた。ビスマルクは、帝国議会で、この会議でドイツは「誠実な仲立ち人」としての役割をはたすと宣言した。実際に彼は列強間の利害調整に徹して、ドイツのためにいかなる代償をも求めなかった。そのためにドイツが新たな拡張をめざしているのではないかという不信感はほぼ払拭された。ヨーロッパ外交における真の「ビスマルク時代」がこのときから始まったといってよい。

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歴史は繰り返すと言うが、仲介することで、外交上の影響力が増す。軍事的には自国の軍事力が温存でき、軍事紛争が長引けば長引くほど、自国の相対的な軍事力は上昇。
そして、仲介を表明した国に対し軍事侵攻しようとする国は、、、ジククス的におそらくない???
よって、仲介のポジションは、安全保障外交的においしいポジションと考えるのである。

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